ヴィクトルが気配に気付いた頃には遅かった。棺から飛び起きようと彼が蓋に手をかけると同時に、上からの圧力が邪魔をした。棺が壊れてしまうのではないかと思うほど鋭い重みは明らかに室外から飛び込んできたもので、一拍置いて、とんと小さな音が棺の上で聞こえた。それは靴音であるとヴィクトルは直感で察した。
 そうとわかると、血の気が引いた。誰かが棺の上にいる。それは少なくとも、ヴィクトルにとってはおそろしいことであった。その感覚がどれぐらいぶりのことかなどわからなかったが、冷えた空気が流れ込むでもないのに、棺のなかが冷えたようにさえ思えた。想定したことはなかった。だが、事実として誰ががいるのだ。この部屋に。この棺の真上に。それを思うと、ぞっとせずにはいられなかった。そして、いつか、自分のことを殺しそこねた哀れな生き物のことを思い出した。血が凍り付きそうな感覚といえば、やはりあの瞬間を思い出す。これはどれほど歳を重ねたところで、変わらぬことではないだろうかとヴィクトルは思う。たとえ他のどのようなことを忘れてしまっても、あのようなおそろしい出来事を忘れる日はないはずだ。そして、自分は後悔しているのだな、とヴィクトルはふとそのようにも思った。思い出すことも久しぶりで、名を付けることもなかった相手のことなど、もう考えたこともなかったというのに。
 そうしてヴィクトルが瞼を下ろし、おぞましく醜い姿をどうにか思い出そうとすると、それを断ち切るように侵入者は声をかけた。
「ドクター、いるのだろう?」
 ヴィクトルはおや、と思った。日本語だ。しかしそれもそうであろう、あれはもういないのだとヴィクトルはその声を不思議がりながら思いなおした。では誰がこのような祖末な寝室へ訊ねてくるというのだろう。心当たりが無かった。
「誰だ」
「わたしだ、ヴィクトル」
 返ってきたのは涼しい声であった。聞き覚えがあるものだ。顔立ちの整った、他人の容姿にたいして感心のないヴィクトルをもってしても麗しいと言わしめるようなその姿まで、はっきりと思い浮かべることができた。憎らしいが、しかし学生服ごと、帯刀した刀と拳銃を覆い隠す膝丈の外套に身を包み、磨いておきながらも靴先に気を払うことのないあの足が自分の棺を踏みつけている姿まで、他人事のように思い浮かばれた。そしてそれは、事実と変わりはなく、正しかった。
 「葛葉か」と思わず名前を呟けば、棺ごしであるのにライドウはその声を聞き取ったようで、肯定のいらえが返った。だが、正体がわかったところで目的は見当もつかない。招いたおぼえも無い。
「何をしている」
 ヴィクトルの問いかけに、ライドウは答えなかった。代わりに、少しの間をおいて口を開いた。
「――あなたの寝台は変わっているのだな」
「ふざけるな」
 眉を寄せてヴィクトルが言ったのが聞こえなかったのか、またも答えは無かった。
 沈黙に続いたのは、静かな足音。それから床へ爪先がぶつかる音がした。しかしそれは単に棺へ腰かけただけであって、一瞬でも体重を棺の上からどけるつもりはないことは棺の下にも伝わった。
「だいたい、どうやって入ったのだ? 誰も入らせるなと言っておいたはずだ」
 どのような態度に出ればよいのかわからず、ヴィクトルは訊ねた。想定外のことだらけだった。こんな所にデビルサマナーを招く予定はなかったし、そもそもにおいて誰でも入れるようにはしていない。見張りがないわけではない。
 ヴィクトルの質問に、ライドウは「ああ」と合点したような声をあげて答えた。
「仲魔になってもらうよう交渉を――」
「何!?」
「とはいえ、管が足りなかったので封魔はできなかったが」
 見えぬが、笑っているのだろうとヴィクトルは思った。ヴィクトルには、歳若くして葛葉の名をついだ青年が目を細め、口縁を淡く笑みで彩るのが見えるようだった。本気か戯言かわからぬような声がなにやら憎らしい。
 もちろん、想像に違わず現実にライドウはそのように微笑んでいた。
「少し残念だ。あなたの大事な助手を仲魔にするのもおもしろかっただろうに」
「おもしろいことなどあるか」
「あなたにとってはそうだろうが、わたしはそれも悪くはない」
「どうでもいいから早く退くがいい。我が輩を閉じ込めて何がしたいのだ?!」
 焦れて、ヴィクトルは棺の蓋を叩いた。圧迫感はない。閉塞感もない。それでも自分の意思ではなく、他者の意思によってこの棺のなかへ閉じ込められているという事実が、好ましくなかった。
「おい、懐深い我が輩でも限度はあるのだぞ、葛葉。この棺をくだらんことで壊したくはないのだ。手間をかけさせるな」
 しかし返ってくるのは沈黙である。
「――葛葉?」
「わからない……」
「なに」
「だが、あなたを困らせたいのだろうな」
 ライドウは呟いた。それはヴィクトルが聞いたところで言葉の足りぬ言葉であり、囁きであり、それがライドウの独り言であると判断するには十分な要素しかもってはいなかった。だが補足の言葉を重ねることはせず、ライドウはただ身を屈め、なめらかな棺の表面を撫でながら、そっとその表面に倒れ込むように頬をよせた。それは石のように冷たかったが、眉を寄せるようなことでもなかった。そのまま、潜めた声で続けた。
「――あなたの顔が見たくなった。それだけでは理由にならないか、ヴィクトル」
「はは、口説かれているのかな?」
 ヴィクトルは鼻を鳴らすようにして笑った。
 だが、ライドウの答えのかわりに、棺を留める金具が軋んだ。
 ヴィクトルは、ふいに差し込む蝋燭の灯りにさえ目を細めながら、開けられた棺の隙間から、自分を見下ろすライドウの顔を見つめた。そして同じように自分を見つめるその瞳は何を考えているのかわかりそうにない、と思った。
 ライドウは数秒ほど、起き上がろうと上体を起こすヴィクトルを見つめたが、すぐに白い顎へと手を伸ばした。それから、指先で唇を撫でた。意図をもって。
「まったく、ずいぶんな挨拶だな」
 ヴィクトルが嘆息すると、ライドウは安堵するように口を開いた。
「――最初から棺を開けていればよかった」
そして喉奥で笑い、身を乗り出した。悪びれた様子はなく、ヴィクトルがされるがまま受け入れることを、疑いもしない。事実としてヴィクトルは、抵抗などしなかった。
 なにしろこれはいつか造り出した哀れな生き物ではないのだから、ヴィクトルには抵抗や拒絶の理由がなかった。
*そしてハイジさんに送りつけた…受けとってくれてありがとうでした。

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