泡沫に拒絶は無く
 貴方に会いに来たのだ、と。
 目付役の目を盗み、アカラナ回廊を抜けてきたという彼は、そう言って再び姿を現した。鏡を覗き込んだような学生服に、外套。頭から爪先まで、同じ格好の影法師。鳴海が槻賀多に出ているときを見計らったように、異世界の自分であるという“十四代目葛葉ライドウ”はそこにいた。
「やぁ、よかった。あなたが帰ってきてくれて」
 銀楼閣に入れないのだと傷のない顔で微笑んだライドウは、膝と一緒に抱えていた刀を腰へ下げ直すと、土埃を払いながら立ち上がった。
 一階の施錠をしたのは鳴海のはずだ。事務所は二階だが、鳴海も雷堂もいなければ下も施錠するのが常であるから、建物のなかで二人を待つことはできない。故に、このように階段に座り込みをしていたのだろう。
 構わぬことではあるが、自分とそっくり同じ姿の彼に、近隣の住人の視線が少しばかり気がかりであった。
「貴様も銀楼閣の鍵を持っているのではないのか」
「挿してみたが合わなかった」
 訊ねれば、ライドウはポケットから鍵を取り出してみせた。似ているが、たしかに少し違う。
「ほう」
このような部分にも違いはあるのかと感心していると、足元で業斗が鳴いた。
「話は後にしろ。ここは人目につく」
 業斗の声に、ライドウの視線が落ちる。
「業斗の言うとおりだな――入るがいい」
 鍵を開けてやりながら、雷堂の脳裏に、なぜ彼は黒猫を連れてこなかったのだろうかと疑問が浮かんだ。だが目付役の目を盗んできたと言うならば、理由があるのだろう。そしてそれはこの業斗に聞かれることさえ憚られることかも知れぬな、と思えた。
 業斗を腕に抱いて螺旋階段を昇り、事務所の扉を開ける間中、ライドウは黙っていた。それ故に、足音がふたつ、よく響いた。だが、同じ靴音が追ってくるのはいささか奇妙な感覚であった。それに、奇妙な感覚があった。ぴりぴりと、背筋が震える。おそらくはあちらの世界の十四代目――ライドウのせいだろうと考えるのは難しくなかった。意識をし始めると、ドアノブを握る掌が汗ばみそうであった。
 だが、業斗は事務所まではなにも言わなかったというのに、鍵を開けた途端に「やはり俺はしばらく向こうへ行くとしよう」とするりと腕から逃れてしまった。
「業斗童子……」
 廊下を駆け、階段を降りて行く小さな足音は聞こえなかったが、言ったとおり、業斗はしばらく戻らないだろう。この十四代目への配慮かと思うと少しおもしろくないように思えたが、雷堂はそれを胸の奥へとそっとしまい込んで無視をした。そして一歩後ろを歩く書生を振り返ると、宣言半分に指示を出した。
「そこで少し待て。今、珈琲をいれてやる」
「構わない」
「我が構うのだ」
 指示を聞かない相手の肩を掴み、無理にソファへ腰かけさせる。だが、背を向けたとたんに腕を引かれた。
「――ライドウ?」
「不要だ。あなたと仲良くお茶を飲みに来たわけではない」
 言って雷堂の腕を引くライドウの胸元が、覗く。外套の下には見慣れた封魔管がなかった。
「……仲魔はどうした」
「置いてきた」
「何!?」
 それでアカラナ回廊を渡ったのかと驚けば、ライドウは静かに頷いた。
「――刀はある」
「当たり前だ! 丸腰で通るような場所ではあるまい……何故そのような」
 珍しくも自分から視線を逸らすように顔を伏せるライドウに、雷堂は訊ねながらも、その隣へ腰を降ろした。けれど、掴まれた腕は自由になりそうにないので、好きなようにさせる。
「仲魔に伝えたくない――」
 ライドウは弁解するように続けた。
「ゴウトにも。私の世界の者の――誰一人にも……知られたくない」
 言葉に呼応して、腕を掴む指に力が籠る。痛みはなかったが、振りほどけない力だった。こもるはずの感情は押し殺されて、声には滲んでいない。だが、雷堂にはもう一人の自分の胸の内が、透かすまでもなく理解できた。共鳴するように、息苦しさが雷堂の息を殺した程度には。
「我ならば良いのか?」
「――会いに来たと、言っただろう」
 はぐらかすように鼻で笑えば、ライドウの唇が少しばかり笑みで崩れる。笑った、と少し驚けば、ライドウは息を吐きついでに「重い」とだけ呟いた。
 主語の抜けた言葉に、押しつぶされそうな重圧が互いの間に落ちていたことに、そのときようやく気付く。硬い声で呟いたライドウは、それ以上言う気がないようだった。だが、言葉が続く必要はなかった。それは互いの一番の共通点だ。姿より魂よりも大事なもの。“葛葉”の名――。
 雷堂には意外であった。自分よりもライドウのほうが優れているのは明らかであると知っている。そのように自分の二歩先を行くように見える彼が、このように弱音を吐くとは。ましてや、名が重いなどと。
 言葉なく、するりと離れていく指を見ながら、自分もいつか同じように苦しむのだろうかと雷堂は考えてみた。だが、苦しんだとしてこの傷のない自分へ会いに足を運ぶかといえば、否であろうとわかっていた。もとよりこのようにいつ途切れるかわからぬ関係に期待するつもりはないのだから、それは当然であるのかもしれないが。
「……珈琲を入れてやろう」
 雷堂は慰めるでもなくそう言って立ち上がった。もう腕は追ってこない。ライドウが「すまない」と謝るのを背に、支度のために部屋を出た。
*責めないし慰めないけど一瞬甘えるぐらいは赦す、というような。

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