残り香
 外では息を飲み込むだけでも、歯が冷気で震えるほど。室内は数日前から火鉢で暖めているし、今年はずいぶんと早い冬の到来だ。
 煙管を咥えながら、積雪のように白い書状の文面を考える。だが、書状の中身よりも昨年の積雪はあと半月ほども遅かったなと思い出す事のほうが簡単で、ついつい思考がそちらへ流れてしまう。
 灰を火鉢に落としながら、政宗は幽かに煙の残る息を吐いた。
 せめて小十郎が顔を出すまでに花押だけで済むものを済ませようと、もう一つの硯箱を開ける。すると朱墨の隣りに、まだ一度も磨っていない墨があった。貰い物だ。ずっとここにあったのかもしれぬが、覚えがない。どこかから出てきたものを、小十郎がここへ置いたのだろう。
 懐かしいものだ。渡されたのは、もう何年も前になる。
「私が普段使っている物ですよ」
 そう言って、冷たい指先から手渡されたのだ。唇の端に笑みを残しながら、あれはわざわざ新品を取り出して、政宗に持たせたのだ。
 俺が、手紙を書けと言い出したのだったか? 政宗は思い出そうとした。だが強請ることはあっても、あちらから自主的に差し出された物を貰ったのは後にも先にもそれきりであったように思う。
「それで文をお書きなさい、独眼竜。そうすれば私もあなたに文を送りますとも」
 おそらくは、受容されれば興味の失せる性格を見抜いて、そのようにしたのだ。今となってはそれがはっきりとわかるのがまた憎らしい。
 実際、文は書かなかった。
 そうだ、あれはまだ冬どころか夏の前のことであった。そろそろ文を書こうかと思った矢先、明智謀反と織田滅亡の報せが奥州へ届いた。
 書けばよかった、と今更に後悔が胸に広がる。その感傷ついでに、政宗は墨を磨った。
 水を落とし、墨を磨る。硯に広がる、温い水に、墨が溶ける。何度も磨いだ。水が黒く、すっかり墨の色となるまで。何度も。
 あれの髪と着物から漂う香によく似た香りが、墨から幽かに香る。
 幽霊のようだ、と思った。だが右目の暗闇にさえ、夢幻のような幻影などは見えはしない。
*没後の話。

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