わかっているのか?
「市!」
 ほとんど収まりかけている喧騒の中、名を呼ぶだけで、お市は怯えたように肩を揺らした。怯えるぐらいならば、私の言うとおりにしていれば良いのに、よくわからない女だ。
 振り向くお市の、長い黒髪の向こうに見える骸の山から、私は目をそらし、後ろから少々強引にその手を取った。視線はお市にだけ向ける。
 魔の巣窟と言われる織田から嫁いできたこの女は、たおやかな見かけと違い、敵を屠る術に長けている。だがそれを言うと悲しそうに目を伏せるので、嫌でも視界に入るその証を無視する。
「あまり遠くへ行くなと、言っているだろう。お前は前線になど立たずとも良いのだ。なぜわからない?」
 小さく、薄い手は、家事をする娘たちとは違い、美しく、やわらかい。いつまでたっても、私はこの手を握りつぶしてしまわぬかどうか、握るたびに肝が冷えるのだが、お市のほうもやはりこの私がその手を握りつぶさぬかと怯えているのだろうか。
 この私が、この浅井長政が妻を痛めつけるなどという愚かな行いをすると、まだこの女は思っているのだろうか。まだ、私は信用されていないのか。
「──でも、長政さま……市は……」
 私の顔を見、握られた手を見、それから片手に握った薙刀を見、最後には地面を見つめてうつむいたまま、お市が口を開く。
 めずらしいことなので、かき消してしまわぬように口を閉じるが、しかし一向にその続きが出てこない。
 掴んだ手を離す代わりに顎を掴み、無理に顔をこちらへ向けさせる。怯む気配は、周囲の骸と同じように無視する。
 それでも目をそらそうとするお市の額に、小さく額を寄せた。こつん、と皮膚の下の骨がぶつかりあった音をたてる。
 黒い瞳を縁取る睫毛がニ三度瞬いて、ようやく私をまっすぐに見る。
「市、私はなにもお前を責めたいわけではない。何度も言うが、私はただ、私の知らぬところでお前が傷つくのが許しがたいのだ。そのように夫に心労をかけるような振る舞いは、悪以外の何者でもないのだぞ! この浅井長政の妻たるお前が、そのような悪に染まるつもりか?!」
「! 違うの、ごめんなさい。長政さま、でも、でも、市……」
「いい。……わかれば良いのだ」
 焦点がろくに合わぬぐらいの距離であれば、こうして私を見つめられるのかと思うと、なにやら歯がゆい。しかも、それでもろくに胸の内を語らぬことが、腹立たしかった。
 だが、腹立たしく思ったところでどうすればよいのかわからない。不要な力を入れてしまうのがおそろしくて手を奪いなおすこともできず、お市に背を向け、陣へ戻る。少なくともお市が背後からその後を追う足音がする間は、悩まずに済むだろう。  
*お第:額と額を合わせる/萌茶で書きました。

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