昨夜の話
 業魔殿は地下であるから、明かりがなければただの暗闇が広がるばかりの空間である。それもばかに巨大な空間となっている上、妙な機器など得体の知れぬ代物に満ちているものだから、手探りで移動するには向かぬ場所だ。
 金王屋の地下、応接間のような場所から密かに設けられた入り口を抜ける、本来の業魔殿の施設への入り口は、悪魔召喚師のたぐいしか存在を知らぬはずである。家主も知らぬだろう昇降機がなければ、とても降りる気にならぬほどの地中深くにある。しかしその昇降機が途中で停まってしまったので、妙だなと思いながら、悪魔召喚師ならではの方法で、ライドウは降りねばならなかった。
 なんとか地下に降りたが、ライドウは目的地の暗闇に足を止めた。一本道であるから見慣れた扉はすぐに見つかるが、しかし押し開いたところで、やはり暗闇が広がるばかりである。
 ゴウトが肩から飛び降りてしまうと、すっかり姿形を捉えることさえできなくなった。
 こつ、と革靴の底が石の床を叩く。その響き方は、この業魔殿の広さを物語るようだった。
「ヴィクトル──」
 静まり返った暗闇に涼しい声が、わずかに響く。だがそれだけだ。
 返事もなにもないのに困っていると、やがて突如目の前に、ぼう、と白が浮かんだ。
「葛葉か」
 よく見れば、燭台に灯した炎に照らされ、ヴィクトルの青白い顔が浮かんでいるのだった。
 足音もなかったせいで、ゴウトが驚きで悲鳴をあげる。その尾を踏まれたかのような悲鳴に、黒尽くめの書生に歩み寄っていたヴィクトルは書生の頭を見下ろし、それからさらにその足下に視線を落とし、黒猫の、唯一の光源を捉えて光る翠目を迷惑そうに見た。
 だがその視線もゴウトの絶叫も、まるでなかったような涼しい顔でライドウは尋ねた。
「照明はどうした?」
「うむ。少々電力不足でな……昇降機も停まっているか?」
 ゆらりと揺れる炎の向こうで、ヴィクトルは言った。頷けば、「すまんな」という謝罪と、ばつの悪そうに揺れる視線が返ってくる。おおかたまた家主である金王屋と揉めたことにこの停電が由来するのだろう。
「──必要ならば仲魔を喚ぶが?」
「いや、すぐに復旧する。少し待て」
言葉の途中で突然バチンと何かの音がし、電燈がまたたいた。復旧した電力のおかげで、見慣れた巨大な空間がようやく目に捉えられるようになった。
 急激な明暗に瞬きを繰り返していると、ヴィクトルが燭台の炎を吹き消した。
 蝋の匂いと煙を残しながら、ゴム長の靴底で床を叩くその後ろ姿の後を追う。足下でようやく暗闇から輪郭を抜き出した黒猫が追う。
『合体途中で停電が起きるのではないか?』
「このヴィクトルの専売特許はそこまで不安定ではない!」
歯をむき出すように言い返すヴィクトルはしかし、計器をいくつか確認してから、ようやくライドウに向き直った。
「む。ということは、合体するのか? このところお主は剣ばかり作っていたように思ったが……ようやく悪魔合体の奥深さへ触れる気にでもなったか!」
「違うが……」
「なんだつまらん」
ゴム手袋に包んだ手を繰り返し握り直しては興奮を押さえきれぬ様子だったが、否定に手を止め、眉を寄せる。しかし断る気はないだろう。それならばすでに追い返されているに違いない。
「合体ではないが、あなたの力が必要だ」
「よく言った! さて、我が輩の手腕をみせてやろう葛葉よ。きょうは何をするのかね」
 ライドウの言葉に、ヴィクトルはにんまりと笑った。そうして笑うと、目元の傷だけではなく、続くように口元にも薄く傷がついているのがわかる。この傷は何の傷であろうかと考えさせるには十分な傷だが、ライドウはすぐに忘れた。傷があろうがなかろうが、ヴィクトルの技術は変わらず優れているに違いない。
*燭台で急場をしのぐヴィクトル。そしてあんだけ高い天井なんだから業魔殿までにきっとエレベーターあるよ…という妄想。

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