もう夜は明けない
 水気があるというのは、これほどに心が落ち着くものなのですね。
 それとも、ここがこの場所であるからこそ、でございましょうか。もうすっかり、水のことなど忘れておりました。ああ懐かしい。懐かしい。すべてが懐かしく思います。

 武田信玄の喪失は恐れられていたものでした。とくに真田幸村の傾倒ぶりをよく知るものからすれば、その喪失がすなわち彼を損なうことになるだろうという考えがありましたので、なおさらでございます。
 まだ若く、ありあまる熱をお館さまへの敬愛として消化していた幸村さま御自身、それを考えずにはいられなかったはず。
 ですが、この世のどこに、その影ほどそれを恐れていたものがいたでしょうか。影として生きたその忍びは、主である幸村さまのことを思えばこそ、武田の頭であるその男に、永久さえ願っておりました。しかし永久などあるものではございません。幸村さまがそれまでに一人立ちできるように、育たねばなりません。お館さまも、それは案じておられたのでしょう。道場などと言葉を変え、形を変えながらも、自分を失ったその時にどうするつもりであるのかを考えさせていらっしゃいました。諭そうとなさっておりました。幸村さまもだからこそ、その喪失を考えぬということはなかったはずでございます。
 だが、武田の血を引くでもない幸村さま御一人に、なにができましょう。武田の滅亡を止めることなど、幸村さま御一人の手では、とても拾い上げることのできない事柄でございました。
 武田信玄が死に、
 武田は滅び、
 真田幸村も結局は壊れ、損なわれ、
 真田の家はそうやって、滅んだのでございます。

 わたしの主君と胸に決めた男も、幸村さまと一緒に、壊れて、死にました。人間とはまこと愚かな生き物でございますね。
 片目を失ったわたしは、ちぎれそうな片足をぶらさげて、夜空を飛びました。
 命のあるかぎり飛ぶことしかわたしには残っておりませんでした。もう宿り木はありません。
 聞こえるはずもない男の呼ぶ口笛を探して、空を行くしかありません。もちろん呼ばれたところで、かぁと澄んだ声は出ぬことでしょう。彼の役にはたたぬでしょう。ですが男に呼ばれるまで、わたしはどこへも行けません。
 だから、その音を、探しておりました。とうとう今の今まで、聞く事などあるわけもございませんが。
 いつか自由になれよと男は言いましたが、自由とは何のことを言うのでしょう。きっと、あの男も自由など知らなかったことでありましょう。今となってはそのように思うのです。
 真田幸村のことを、わたしは好きではありませんでした。わたしの主人を影として縛り付けていた男。とうとう命まで奪っていきました。いえ、もちろん、主人はそれを是としたのだとわかってはいるのです。
 けれど、だからこそ憎らしい。
 ──どうなさいました。
 烏がべらべらと喋るのが、気味が悪いと……違う。ああ、なぜ泣かれるのです。佐助を、待つ? なにをおっしゃっておられるのですか、幸村さま。もう忍びは死にましたよ。ああ、それはご存知で。しかしそのくせ彼が六文銭を持っていないから、待たねばならぬと? いいえ、いいえ。忍びにそのような銭は不要でございます。
 猿飛佐助は死にました。ただそれだけで、後はございません。それが忍びという生き物の定めでございます。人間様とは違います。ええ、わたしもじきに死ぬでしょう。
 もうこれ以上はございません。
*佐助の烏と幸村

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