まずは名を
骸から離れたところに着地すると、三成はようやく血を振り払い、刀を鞘に納めた。
そのままゆるりと立ち上がると、ぱちぱちと手を叩く音が背後に起きる。敵意はないと思いながらも、三成は刀から手を離さぬまま振り返った。
目線よりやや上の岩肌の上で胡座をかいているのは、近頃豊臣に下った男だった。まだ幼さが残っているが、眼差しはどこか老人めいたところがある不思議な印象の青年だ。嫌みとなりそうな金の布地も、その明るい人柄を現すようによく似合い、すこし眩しいようにも思えた。
「徳川」
「家康だ。三成殿」
名を口にすれば、名字では不満であると主張するように名を呼ばれた。しかしいくら同じ豊臣傘下とはいえ、他軍の陣営まで、なにも名を呼ばれることを要求しに来たわけでもないだろう。だいたい、大した面識もない。
「──何用だ」
「居合切りに興味があってな」
家康は立ち上がると、軽やかに岩から飛び降りた。
「まぁ、ここに立ち寄ったのは偶然なんだが」
かぶっていた上着の頭巾を背へ払うと、いよいよ確かにその顔が見えた。人懐こそうな顔だった。三成の鋭さとは対象的だ。
「ワシは刀を使えんし、その真価はおそらくわかりようもない。しかし、その域に達するまでどれほどの鍛錬かと興味がわくほど、見事な腕前。さすがは秀吉公を支える左腕とも言われるわけだ」
「……」
「? なにか気にさわったか?」
「世辞はいらん。貴様のための剣でもない」
「自分のためならば世辞など言わないさ。とにかく、いいものを見せてもらった。感謝する」
「なぜ敵を殲滅したことを感謝されねばならない? それも貴様に」
「わかっているさ、三成」
呆れたようにも聞こえる声音で、不意に呼び捨てられる。読めぬ男だと三成はやはり刀から手をは離せぬまま、家康を見つめた。にこりと裏なく笑む顔に渋くなっていると、家康は何かを放り投げた。
「!」
思わず刀から片手を離し払いもせずに受け取れば、硬く絞られた手ぬぐいだった。水気を含んでいるために、空を舞わずにすんだのだろう。
「なんだこれは」
「少しは返り血を拭うといい。鎧から血が滴って、まるでおまえが怪我でもしたようだ」
「いらん」
「好きにすればいいさ」
家康は無理強いするつもりはないのだと言うように肩をすくめた。それから、話はそれだけだと三成の横を抜けた。
「では、また会おう、三成。ワシを知ってくれていてすこし嬉しかった」
「家康!」
三成は思わず呼び止めた。そうして名を呼んでやると、家康はすこしだけ振り返った。
首を傾けるだけのような振り返りかただったが、その顔はまるで子どものように邪気なく笑っていた。
「すまんが長居できんのだ。赦せ!」
家康が言って突然駆け出すと、奇妙な音が空をさいた。何事かと三成は刀を構えかけたが、それは本多忠勝が文字通り空を飛んで現れた音だった。
どのような理屈であるのか知らぬが、空を飛んできたのは確かだ。いや、今もなお、浮いている。傷一つ負わぬと名高い忠勝は、そうして二人揃えば家康が小さく見えるほどの巨体だった。家康はすこし肉のある身体つきであるから、細身の三成など並べば、その巨体はより際立つことだろう。
「すまんな忠勝! 迎えになどこさせて」
その背に飛び乗った家康が叫ぶ。忠勝は甲冑をふれあわせて答えたようだったが、本当のところはわからない。ただ、その人外そのものと言えそうな身体は、家康の体重に反応するように、再び空へと飛び立った。
三成は呆気に取られて、二人が空へ消えていくのを眺めるより他なかった。
そうしてようやく一人になってから、片手に家康がよこした手ぬぐいを手にしたままであるのに気づいた。舌打ちをしたが、捨てる気にもなれず、顔をすこし拭う。顔は大して血を浴びていなかったが、たしかに腕や腹をみれば、思ったよりも甲冑が血に濡れている。それを伝って、雫が足元に落ちる。
「ふん…」
すこしは血の匂いが消えるような気がして、言われたとおりにそれを拭った。
「面倒な男め」
羽織の血染みと同じように、どうせ記憶に留めることもできなくなるとわかっていたが、そうして血水に濡れた手ぬぐいを無造作に捨てることもできない。三成は眉根を寄せた。
後日に改まって新品の手ぬぐいが家康宛の書面とともに届けられたのは言うまでもない。