未だ闇を知らぬとは
 視界の隅で、長政が気遣いを知らぬ腕でお市の細腕を取ったのが見えた。
 波々と酒を注がれた杯を両手でもてあましていた光秀はそれに気づいて、この度夫婦となった長政とお市の様子を見てこの退屈を紛らわすのも悪くはないか、とそちらに顔を向けた。見れば、言葉は聞き取れずとも彼が叱責するような調子で声をあげているのがわかる。長政が口を開くと同時に細いお市の身体が震えた――やはりどこにいたところであの娘は他者にされるがままであるだけか、と光秀は再び感じる退屈に眉を潜めかけたが、空いたお市の指先が長政の腕をなぞるように掴み、俯いていた顔をあげた。
 今川を退ける間にいくらか親しくなったのか、それにしてもあのお市が、真正面から人を見つめ、言葉を向けようとしているらしい。光秀が瞬きをしたところでそれは変わらず、彼女はやはり、自分の意思を伝えようと試みていた。おやおや、と驚きを隠さず見ていれば、お市の唇が小さく何ごとか呟き、言葉をかき消さぬように口を閉じたらしい長政が、ひどく真摯な顔で妻の顔を見つめる。そうしているうちにお市はその視線に耐えかねてか再び俯きつつあったが、長政が眉を下げてゆっくりと口を開くと、すぐに顔をあげ、微笑んだ。しかし「当たり前だ!」と再び声を荒げる長政によって、またお市はびくりと身体を震わせてしまうことになった。
 光秀はおもわず口許を押さえた。おかげでくく、と喉が鳴りそうになるのを堪えることはできたが、隣席の蘭丸にはそれを気付かれた。杯に口もつけずに笑う男を、小鬼は疑わしげに――蘭丸が光秀を見る時は、だいたいこのように疑わしげな顔か、嫌悪や侮蔑を隠しもしない高慢な顔のどちらかしかないのだ――光秀を見た。
「なんだよ光秀。薄気味悪い面しやがって」
「――お市様はよくやっておられるようだ、と感心していただけですよ」
 光秀がそう答えると、すぐに蘭丸は光秀と同じように市と長政を見た。
「ふぅん。お前にしちゃまともだな」と呟きながら。しかし同じようには見えないらしい。溜息混じりにその口が続けたのは主人への偏愛そのものだった。
「お市様、御辛いだろうな。信長様の側を離れてあんな喧しい浅井のとこだなんて」
 なるほど信長を中心に世界をまわしているだけのことはある。どのように解釈すればそうなるのだかわからないが、しかしだからといって反論をすれば面倒なことになりそうだと思えて、光秀は口を閉じた。しかしこんなときばかり、この子供は聡いのである。
「なんだよ? 言いたいことがあるなら言いやがれ」
「おや。ではひとつだけ」 目線を再び若夫婦に移しながら、光秀は蘭丸が黙ることを願って諌めた。
「蘭丸、そのように言っては長政公が悪くきこえますよ。お市様の夫にそのような口をきくのはおやめなさい」
それはお市様も侮っていることになるのですから、と付け加えれば子供は思惑通り何も言えなくなったようで、唸るようではあったが黙りこみ、終いには憎々しげに光秀を睨みつけた。だが対して光秀が何の反応も返さないのがまた不満に思えたらしく、鼻を鳴らしてちらりと若夫婦を見、「なんだよ」と不満げにぽつりと漏らした。そしてへの字にした口を隠すこともなく席を立ってしまった。
 改めて視線を向ければ、長政は眉間に皺を寄せ、むず痒そうに唇を一文字に結んで、お市の言葉を真摯に受け止めようと再び試みているようだった。
 何事かはわからないが、とうとう「善処する!」と叫ぶように宣誓したのが聞こえて、光秀は堪えられずにふふふ、と笑った。

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