常世の淵
 佐助が向かってきた薙刀を軽く飛び越えると、艶やかな黒髪を散らしたお市は間髪を入れずにぐるりと身体を捻り、薄く重ねていた二双を素早く組み割り、仕掛けてきた。斬り、突き、切断する鋏のように交差される刃は感情がなく、危うい。
「わ、と、危ねっ!」
 どうにか次々と向けられる追撃を飛び越え、避け、佐助はお市と距離を置こうと試みるが、お市の追撃の手は緩まない。一言の言葉も発さず、ただただ感情もなく、しかし鋭く薙刀を振るうそのさまはまさしく人形のようで、忍びの背にさえ怖気を誘った。
「ちょっとちょっと! あんた、マジで人形かよッ!」 危うく手首を落としかけながらそう喚き、巨大手裏剣で刃ごと押し返すと、さすがに軽い身体では支えられぬらしく、お市はたたらを踏んだ。それでもそこにつけこんで手裏剣を踊らせたところで、それらをくぐるように向けられる、舞うように鮮やかな軌跡を残す刃は霧の中においても鈍ることなく鋭いばかりで、気を抜けば肉を削がれることは必須だった。
 信じがたい重みを伴って出されたお市の刃がとうとう強かに佐助の腹をえぐる。息をつめて思わず霧を解けば、彼女の小さく開いた唇がなにごとか呟いているのに気づいた。「? 何、言って――」
 呼んだ忍び烏にすばやく腕をつかませて空へと飛び、距離をとる。血に混じって暗闇色の羽根が散る。鉄砲玉に打ち落とされないことを祈らずにはいられないが、術を解いた以上は羽ばたきが残りの霧さえ散らしてしまうのはもはや構うことではない。すると刃が届かないと察したらしくだらりと腕をたらしたお市に、ようやく呟きがききとれた。うつむいて表情は見えないが、唇が同じ言葉を繰り返しているのが見える。
「長政さま…見てる……市を見てる……長政さま…………長政さま……長政さまが………長政さま…長政さま…」
「あんた…」
 脳裏に浮かぶ白と赤の眩しい甲冑に身を包んだ男が死んだことは、もちろん佐助も知っている。信長が義弟となったその男を、この女の目の前で殺したのだという話さえ耳に入っている。
長政さま、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……長政さま、ごめんなさい、ごめんなさい長政さま………長政さま、長政さま、長政さまながまささまながまささまながまささまながまささまながまささまながまささまながまささまながまささま――。
 呪詛のように繰り返し、意味を成さぬ名をお市は一心に呟き続けているのだ。「――死者に魂もってかれた、ってかァ?」 笑えねぇやと引きつる唇を隠しもせずに言いながら、佐助は高度を落としたことによって再び向かってくるお市に刃を繰り出した。
 烏から地へ飛び込むように降り、そこから飛び跳ねるようにして薙刀を避け、自分の獲物を向けてはまた逃れる。何度か獲物は彼女の魔性の血を舐めるのだが、お市は刃が肉を割く瞬間は声こそあげるものの、わずかも怯まないので厄介だった。ましてや佐助の一撃一撃を避けながら、その攻撃は段々と乱暴なものになっていく。佐助にとってさらに厄介なのはそうして乱暴であればあるほど、お市には付け入る隙がなくなっていくところだった。
 ばらばらと散る黒髪を切ろうが、皮膚を佐助の振るう手裏剣やその風圧で裂こうが揺るぐことのない人形。血肉を供えているその不気味さが佐助を焦らす。そして彼女の暗闇が気配を増していくごとに、自分の中の血がざわざわと高揚するようでもどかしいのが何より辛かった。
 ふいに顔をあげて、お市が叫んだ。
「長政さまっ! 市、がんばってる、がんばってるの……だからっ…怒らないで!!」と、まるで誰かと喋るようにその焦点は佐助を捉えない。それでも刃だけは正確に佐助をねらうのが奇妙だった。
「あんたさぁ、そんなに好きなら後でも追えばって、くっそ、聞いてないって?」
「あなた、うるさい……うるさくて、長政さまの声、きこえない……邪魔だわ、あなた、ねぇ、消えて……消えてよ…! 市から長政さまをとらないで……!」
 刃をしのぎ、反撃をし、堪える合間にお市の足元から無数の暗闇が伸び、亡者の手のように蠢く――亡者そのものかもしれない、と佐助はそれを避けるように距離を置いた。しかし佐助が動けばその無数の影も後を追い、息つく間もなく影に飲まれた。「って嘘だろぉ?!」と喚けば宙へ持上げられ、握りつぶそうとする圧力にみし、と骨がきしんだ。それを見上げたお市の唇が薄く微笑むのを見咎めながら無理やりに逃れれば、闇の爪が腕の肉に食い込んだ。「っ痛ぇー!」
結局飛びのくことに失敗し、地を転がれば削がれた肉が血を伴って草を濡らす。それでも発火でもしているのではないかと疑うほどのその痛みを堪えながら起き上がれば、薙刀が影を留める。
 舌打ちをしたところで事態は好転しないが佐助は思わずそうして後ろへ飛びのき、また一撃を逃れた。そしてもはやどうするかと考える余裕もなく、肉がそがれた左腕になけなしの力をこめるようにして、佐助は仕方なく九字を結んだ。
霧を晴らしたことでか、今更ながらに虎の子の呼び声が聞こえるのが一番の理由だった。九字に続いて闇烏の封を解く呪印を結ぶ佐助にはありがたいことにそれはまだ遠いが、それでも叫び声が嫌に耳に響くので眉間に皺をよせ、佐助は迫り来るお市に向かってなにもかもをそこへ押しぶつけるために踏み込んだ。「いい子でいろよ!」と解かれた闇がお市の闇さえ飲み込み、同時に佐助の血肉を癒す。他者の血も肉も魂さえも根こそぎ喰らい、使い手の小さな傷ひとつさえ貪欲に飲み込むこれは敵味方のない諸刃の剣ではあるが、佐助のとっておきだ。失われた血が完全に身体へ巡るのはまだ時間が要るが、傷口がふさがり、身体が軽いことに唇がゆがむ。「――死んでくれ」
 あの人は飲むなよ、と胸のうちだけで唱えて佐助は小さく喉で笑った。
*お市ストーリー2章から派生

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