ただのひと
軽やかな足音を伴って、書生が駆けて行く。
黒い外套に風を孕ませながら、駆けて行く。
学帽で目元が隠れてはいるが、その顔が美しいことは筑土町では有名なことである。
黒い洋袴に包んだ長い脚で、跳ぶように駆けて行く。
声をかける者にいつもはぺこりと頭だけを下げる小さな礼をするのだが、今は総じて無視をしている。
どうしたのかね、と商店の者たちが不思議そうにその背を眺めているのも気にはならぬようである。
遠目に観ればわからぬが、外套の下に隠すように携帯している刀の柄へ、右手を沿えている。
その背に、常人には聞こえぬ声が呼びかける声がある。
書生の足元で共に駆ける小さな影の声である。
常人にはにゃあと聞こえるばかりの黒猫の声だ。
そしてその鳴き声へとちらりと視線を向ける書生の姿に、変異があったのだとわかる者もいる。
しかし変異があったとはわからぬものもいる。
どちらにせよ書生は言葉を発することもなく、多聞天へと駆け込んだ。
そうして多聞天へ駆け込んだはずの書生の姿は境内にはなく、まるで神隠しのように消えてしまったのであるが、それに気付いたのは常人ならざる存在ばかりであった。
それは筑土町が平穏である証である。
鳴海は借り物の自転車に腰かけたまま、多聞天の前へと辿り着いた。
一足遅くそこへ辿り着いた鳴海にとって、書生の影はもはや見えぬものである。
なぜならば、たとえ異世界で書生が力づくの戦いを繰り広げていようが、それはけして常人の目に写り込むことはないからである。
つまりこのまま書生が傷つき倒れでもしてしまえば、二度とあの書生がこちらへ帰ってくることはなく、まさしく神隠しとして終わってしまうのである。
鳴海は、その現実へ慣れつつある自分を嫌悪した。
おそらく書生は涼やかな顔をして戻ってくるだろう。
そう思うものの、それはなにやら歪んだもののように思えてならなかった。
しかしその感覚が正しいものであるのか、もはや鳴海に自信はないのであった。