彼の枕は何処へ続くか
 明智光秀という主人について家臣は大まかに2つにわかれる。ただただあれが恐ろしいというだけの家臣と、恐ろしいことは否定せぬがどこまででも付き従うことを誓っている家臣である。そして後者のほうがより光秀がどのように恐ろしいのかを理解してはいるのだが、どちらとも光秀の中身を想像できるほど近しいわけではない。どちらもその隣を歩く事はできない。どれほど慕っている家臣からみたところで、明智光秀は孤独である。
 茂朝は光秀の額に冷やし直した手拭を起きながら、ため息をついた。戦の後で魘されるように苦しい苦しいと呻くこともなくなって久しく、光秀は狂気をすっかり潜めてにこにこと穏やかな顏で戦の後も過ごすことが多くなった。しかし代わりにこのように時折、なんの前触れもなくぱたりと糸の切れた人形のごとく倒れては発熱をするのである。医者に見せても「さてわからぬ。過労ではないか」などと言われるばかりである。たしかに二日ほど寝込めば何事もなかったかのようにすっかりと良くなってしまうのだが、前触れもないだけでなく、死人のようにただただ横たわるばかりであるのでいささか不気味である。
 また、一度小姓がこのような光秀の世話をしていて殺されかけたことがあった。倒れた時のように前ぶれなく目覚めた光秀が飛び起き、驚いて身動きのとれない側仕えの首を締めたのである。息も絶え絶えになりながら主の手をひっかき、わずかとはいえ血を流させたところでようやく光秀がぱちりと瞬きをして手が緩んだのだと聞くが、よほど恐ろしかったらしくその小姓は使い物にならなくなってしまった。故に無駄な殺生を嫌う――戦場でもない場所での殺生は光秀曰く不味いものであるとして、本意ではないらしい。とはいえ戦場ではなかろうが殺生を厭わない言動は変わらぬので嘘か真かは判断しがたい――光秀のためにも、外聞のためにも戦場のみならずとも、このような場では極力武将の一人が側へ仕えることが慣例となっている。
 いつかのようにまるで死者に魘されるような主のままであればこのような恐ろしさはなかったのだろうと思うと、茂朝はため息が零れてしまう。髑髏や烏などを愛で、鎌を振り回してうっとりと戦場を駆ける主も決して嫌いにはなれぬのだが、それでもこの孤独な人がこの先どのようになってしまうのかを考えると、なによりも深い恐ろしさがあった。
*2007/12/07
十三夜
 光秀は酒を飲まないので、手酌をするのは家康ひとりになった。
 ほう、と外で梟が鳴く声を聞いて、月を見上げていた光秀の口元がわずかに揺れるのを家康は見咎めた。
「なんじゃ、鳥が好きか」
「とりたてて、という程でもありませんが」
 光秀は背丈の短い家康に顏を向けることもなく、目を細めた。
「貴方はお好きのようだ」
 と、杯を投げ付けたのだとわかったのは光秀の手元にあったはずの杯が庭に落ち、砕けたからであった。瞬間的に膨れ上がったように思えた殺気はもはやなく、家康が目を丸くしたのも気にしたようすのない光秀は、梟が鳴き、そして杯を投げ返してきた林をじ、と静かに見て呟いた。「梟はあまりいただけない」
 しかし呟いた後に、ご馳走さまでしたと笑う光秀になにやらぞっとするものを感じたように家康は思ったが、それもすぐに消えた。そのため、光秀が席を辞すと、残るのは砕けた客人の杯と、不覚にも酒を浴びた己の忍びと、それらのことに興味を見せずにただ月を抱く秋晴れの空ばかりだった。
*2007/10/26
見えず知らずわからず
 暗闇に眩い朱が散る。喪服を纏った女が戦場を駆け、死をまき散らして踊る様子をちらと光秀は横目で捉えた。蝶の群が羽ばたく錯覚は彼女が放つ火炎によるものだろう。その姿が闇のなかに浮かぶのを美しい、と思うが同時にそれがすこし寂しく、光秀は息を短く吐き出した。鎌がとうとう血肉に当たることをあきらめて地表につく。その無機質な音がしたきり、周囲は風が凪ぐ程度の音ばかりが残った。
「なぜでしょう」
 周囲に散らかった骸に目線を映しながら、光秀はもう一つ息を吐く。視線を落とせば、自分の腕に誰のものか知れぬ血がかかっていた。しかしもう乾き始めて色も濃い。「すこしも心が弾みませんね」
血の色に己の飢えた魂は疼いてならぬはずだというのに、今は何故かすこしもそのような感覚は込み上げて来ない。仕方なしに蝶が舞うのを背に、光秀はとぼとぼと歩き出した。
 己の周囲以外でも、喧噪は治まりつつある。もはや人の気配を知れば逃げ出すような者ばかりの戦地は、退屈なことこと上ない。ただでさえ、蝶が舞っている。その事実だけでも気がそぞろになっている己がここいる。
 光秀は言い訳をするように呟いた。「――ここは飽きた」
*2007/09/24

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