死に水を取る
 てっきり死んだものだとばかり思っていた者が最後に見た時と変わらぬ姿で現れれば、それは夢や幻であろう。しかしその幻影は衣擦れの音をたて、畳に膝ばかりか手をついて床に臥せるこちらの顔を覗き込んだ。
「長らくぶりですね、独眼竜」とこれまた何十年も聞くことの叶わなかった声もした。
「――おめぇ、やっぱり死神だったんじゃねぇか」
 変わらねぇと言えば引きつる唇でどうにか言えば、冷たい指が唇をなぞってきた。
「あなたも、お変わりない」
「よく言うぜ、俺はこんな年老いたってのに――」
 このところ急激に皺が深くなったように思う、腕を伸ばす。そんな程度の行為さえ億劫な、ひどく衰えた腕には我ながら病の色が色濃く落ちているのがわかった。どうにか指先が触れた光秀の肌はさらりとしていて、皺など見当たらない。本当に、変わっていない。変わったとすれば銀糸のような白髪がすっかり短く切り落とされた程度のこと。
 光秀は添えられた手を包むように支えて、目を細めた。「もしも、本当に年老いてしまっていれば、会いになどきません」
相変わらず色素の薄い瞳が何を見ているのか、視線を感じながらもやはりよくはわからなかった。元よりわかっていたことなどほとんどなかった。光秀はいつも理解のできない生き物であった。最初から最後まで。しかし馬鹿げた嘘を言わないことはわかっている。
「そうか」
 なぜ、来たのだ。このような場所へと。今となってはお前の好きな戦から遠く離れてしまった老人のもとへなど。
 この竜は年老いて前線に立つ事も忘れてしまったのだ。病に臥せり、いつかの影もないほど惨めな身の上。ここに光秀が求める血の匂いはない。あるのはただの黴臭い死の匂いだけだ。
「光秀」
「はい」
「俺を殺しにきたのか」
 問えば、まるでそのような言葉は喉から発せられなかったとでもいうような間があいた。俺の隻眼を見つめているらしい光秀は、時が止まったように身動きひとつしなかったが、やがてめずらしく戸惑ったそぶりで口を薄く開けた。
「私を、連れて行って欲しいと」
 肯定はしなかった。しかし否定もしない。光秀らしいことで、結局どこへ、とさえ言わなかった。理由もやはり言いはしなかった。ただ、目的だけを述べた。光秀にとってはそれが全てだったのだろう。何故だか不思議なほどに納得もできた。そして同時に、笑いが込み上げるのを感じた。
「地獄だぞ」
 笑いを堪えるように震える声で確認をする。行き着くのは地獄だ。煉獄とやらかも知れぬ暗い闇の奥。だが光秀はいつかのようにくすりと笑い、楽しげに唇を歪めた。
「ええ、きっと愉快でしょう」
 そうだな、と肯定をしようとすると、唇が触れた。その懐かしさに片方きりの瞼を下ろす。それから零れ落ちる水のように流れるはずだった長い髪が今はないことを残念だと思いながら、あっさりと触れることのできるうなじをそっと撫でた。そうしながらきっとこの瞼が開くことはもうないのだろう、と思った。

>>その後

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