Eucharist - 2
 新たな客を告げるドアベルの音に、カウンターへ腰掛けた何人かが反射のようにちらりと目を向け、しかしすぐにまた手元のグラスや話し相手のほうへと視線を戻した。
 顔見知りではあっても、この場所ではそんなものだ。目があえば会釈程度する者もあるのだが、しかし残念ながらこの客は深く学帽をかぶっていて、目元が見えぬのだから仕方もない。
「いらっしゃい、葛葉さん」
 静かにグラスを磨く店主だけが、その新たな客に声をかけた。
 足下へ自分の分身のような黒い猫を伴った彼は、言葉の代わりに学帽の鍔を下げた。学生服の上に、同じく黒の外套を羽織った彼は、肌の色ばかりが白く浮かぶようだった。
 同じ年頃の客は他になく、一見すると彼はひどく場違いにも見える。しかし初めての客ではない。彼は自然とカウンターに集まる常連の輪に混じった。そうしてしまうと、違和感はたちどころに消える。学生服に身を包んだ彼の、正式な身分を知る者たち特有の空気に、よく馴染むのだ。
 そして、そんな彼らにしか見えぬ者も、この場には存在していた。この店はそういう店だ。帝都の数あるミルクホールの中でも、銀座にひっそりと軒を連ねるこの店へ、わざわざ書生が足を踏み入れたのもそのためだ。彼はそういった特殊な客の一人である。
 例えば、黒猫の背後で小さくあくびをした愛らしい少女の姿などは、他のほとんどの客には見ることさえ適わない。金髪金目の彼女はそれを自覚しているが、しかし気に留めた様子もなく、鈴の音をちりりと鳴らし、よじ上るようにカウンターの椅子へ腰掛けた。
 書生はそれを咎めるでもなく、彼女の姿が見えぬ誰かがその椅子へ腰掛けぬように、カウンターへと背後から存在を覆い隠すよう腕を伸ばす。
 その気遣いに、隣の女がくすりと口元を綻ばせた。
「あら、そのお嬢ちゃんをつれてくるのは初めてかしら?」
 まさしくモガと言える装いの女だった。連れの男は彼女に合わせるように白い誂えのスーツを着ている。モダンな客が多い店だが、しかし彼らのように互いを引き立てるように合わせている客はまだ少ない。
 二人はそこへ腰掛けてだいぶ経つのか、それぞれのグラスの中は、溶けた氷のほうが多いように見受けられた。氷を鳴らすようにグラスを手の中で持て余した男は、彼女が何を言いだすのか見張るような目で、女を観ていた。
 カウンターにしがみつくように腕を伸ばした少女はちらりと女に目をやり、警戒か不快か判別のとれぬ顔をした。愛らしい顔立ちであるのに、冷たい視線がアンバランスであった。
「お嬢ちゃんじゃないわ、アリスよ」
「あら、ごめんあそばせ。アリスちゃん」
 床に届かぬ足を揺らしながら、つんとした声で訂正を求めるアリスに、女は楽しげに謝罪した。頭を撫でるまではしなかったが、彼女がもっと幼子であればそうしたかもしれない。
「それにしてもお久しぶりね、ライドウちゃん」
 少女からその庇護者であり主人である書生に顔を向け直した彼女は、そう言ってカウンターへ肘をついた。  客の一人が耳聡くその名を拾ったようで、感心したような声を漏らした。カウンターの周りで、囁き声が波紋のように広がる。
 ライドウという名は、彼自身を指し、そして同時にその存在意味そのものでもある。彼らの間ではこの帝都中の誰よりも知れた名であるので、まだ彼の顔を知らずにいた者からすれば、驚きに値する名であることは確かである。とりたてて珍しい反応でもない。もちろん当人も彼らの声を拾っていたが、無視した。ただ、モガに顔を向けると「お久しぶりです」と微笑むでもなく口を開いた。
 無愛想な彼の代わりに、足下から黒猫が言葉を継ぐ。
『ちょうどいい。早速だが質問に答えてやってはくれぬか』
 その声を解せぬ者は、にゃあと小さく鳴いたのがその黒猫か、それとも、カウンターの中で気ままにしている数匹の猫のいずれかの声かも、わからぬに違いない。
 女の隣に腰掛けた連れは、黒猫の声を喜んだ。
「これはこれは、業斗先生もお久しゅう! ほれ、答えてやりんしゃい」
「あなたに言われるまでもないわ」
 気の強い女性だと一言でわかる口調であった。
 彼女は男を一瞥すると小さく鼻を鳴らしたが、すぐに取り繕うでもなく視線を戻した。
「それで、何をお聞きになりたいの? わたくしの幸運にあやかりたいのかしら」
「——ナタクがなかなか捕まらず」
『ヴィクトルの依頼で必要なのだが、話しかける度に逃げられてしまってな』
「ああ、ドクターのご依頼なのね。ふぅん。でも残念だわ、強運に関係することではないもの。だって彼なら、根気よく喋りかけてこちらを理解してもらう必要があるだけよ」
「根気よく……そうか——ありがとう」
「お礼などよろしくてよ。それにしてもナタク……あの方が欲しがるなんて、おもしろい話ね」
「——おもしろい?」
「だってフランケンシュタイン氏なのでしょう、あの方は。彼がナタクに感心を持つなんて、まるで昔の女の面影を追うようにも思えて、愉快じゃありませんこと?」
 彼女は意地の悪そうな響きを含ませ、問い返した。しかし肝心のライドウに言葉の意味を理解することはできなかった。もちろん、黒猫も同様である。
 連れが「言葉が足りんぞ」と咎めるような口調で言い、ライドウが首を傾けることで、ようやく彼女は自分の常識が他人とイコールでないと気づいたらしい。
「あら、ごめんあそばせ。——そう、あなたは御存じないのね。それではわたくしの言いたいことがわからないのも無理はないわね。ほら、こちらをお読みになるとよろしいわ」
 ほっそりとした指が、膝上のクラッチバッグから分厚い本を取り出した。
 表題を見るかぎり、日本語ではない。海の向こうの出版物である。ライドウの腕の中でその英字を盗み見たアリスが「英語?」と首を傾げる。
「——これは」
「フランケンシュタイン。差し上げても、よろしくてよ」
 彼女はにんまりして、また先ほどと同じ言葉を口にした。フランケンシュタイン——そうして繰り返されてようやく、ライドウはそれが先ほど話題にしたヴィクトルの名であることを理解した。そして、近頃海を渡って入ってきたのだろう、この本のタイトルであることも。
 アリスはつまらなそうに首をひねった。
「ライドウ、読めないでしょ」
『お前以外の仲魔なら読めるだろう』
「ゴウト、しつれい!」
『ガキが呼び捨てにするな!』
「ひどい!」
 猫と少女のやりとりを遮るべく、ライドウは静かに管を取り出し、アリスを封じている管の中へと戻した。
「——ゴウト、アリス、静かに」
『むむ』
 胸元に納められた管の中から癇癪を起こす幼い声と、それをなだめる声が密やかに起きたが、ライドウ以外にはろくに聞こえない。そして彼はもちろんそれに構わない。
「それで——」
 ばつが悪そうに下を向いた黒猫と、涼しい顔で続きを催促する書生を交互に見て、女は喜んだ。
「フフ、同じ名前というだけかも知れませんけれど、これがもしもあの方のことだとしたら——とても興味深いわ。ああ、そうね、ご存知ないのよね。これは生命創造を行った青年の話なのよ、ライドウちゃん」
『しかし、それは学術書でもない、たかがフィクションであろう? ずいぶんと、想像力が豊かなのだな』
「フフ、我々のような生業には想像力がなくてはね? だいたい、本当のことかも知れませんわよ。何しろあの方の専門は不死……そして創造だわ。悪魔合体の技術はあくまで副産物のようなものでしょう?」
「おい、あまりさしでがましい真似はよさないか」
「業斗ちゃんは黙っていて頂戴。これはサマナーとしての話ではないわ。ただの世間話よ」
「む」
 そうだ、と肯定するのはライドウではなく黒猫だった。連れをたしなめた男への配慮だろう。『すまんな』と猫は口を閉じたきりの書生に代わって詫びた。
『たしかに、知った顔の半生が書物になっていれば、おもしろくはある——それも、あのヴィクトルか』
「ほらね、気になるでしょう? 興味がわくのもしかたがないことだわ」
「はい」
「——素直ね。まぁ、想像の域を出ない話ではありますけれど。あなたほどのサマナーなら、あの方も話してくださるかもしれないわね。もしも教えていただけたなら、わたくしも聞きたいわ。どうして彼が人であることをお捨てになったのか、それよりなにより、この本に書かれたとおり怪物を生み出したのか……とても興味がありますもの」
「それほど——?」
「そうは思わなくて? あの方が人でも、悪魔でも、サマナーでもないまま、ああして生きながらえていることそのものが、わたくしには、強運に恵まれた証に思えるわ」
「なるほど——面白い話をありがとう」
 ライドウは頭を下げ、礼を言った。
「あら、よろしくてよ。気になさらずともね」
 ただの世間話ですものと彼女は笑った。そうしてしばらくぶりに、手元のグラスに口をつける。強運を愛する彼女らしく、グラスの中身は強運を呼ぶ酒だった。
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