Eucharist - 4
 若きフランケンシュタインが半分ばかり吸血鬼と転じることとなったのは、いつかそれが正当であると信じたように、オカルト知識を学び、生命創造への熱意が再び沸々とその胸の内で煮え、彼を放浪させるに至った頃のことである。既に悪魔の存在を書物以外で知ってはいたが、貧血の吸血鬼が訪ねてくるとは誰が想像するだろうか?
 青ざめた顔、細い体、暗闇を具現化したような漆黒の外套はかび臭ささえ感じるほどに古いスタイル。後世で言うところの“いかにもそれらしい姿″をして、医院の扉を叩いたのが、吸血鬼の眷属たるクドラクという悪魔であったのだ。

 それは、怪物が生み出されたのにも似た、嵐が来そうな夜だった。ヴィクトルは、それが生憎の聖夜であったことも覚えていた。貧しい家庭にも明かりが灯り、どこからともなく聖歌も聞こえた。
 彼がそこへ医院を構えて、もう何年も経っていた。栄えず、廃れず、助手を一人——既にその時分では家に帰していたが——雇える程度には続いていた。その診察の傍らで、ヴィクトルはオカルトに改めて手をつけ、魔術の知識や理論を頭に詰め込み始めたころのことだった。
 医院が家を兼ねているヴィクトルにとって、診察時間などはあってないようなもので、珍しくはあったが深夜の訪問者も不審には思わなかった。
 弱々しい、しかし確かな三度のノックが聞こえた。
「どなたかね」
「キミの客だ、ドクター。入っても構わないよな?」
「拒むことはない」
「そうじゃない! 許可がいるだろ。それがなければ入れないのは当然だ。マナーだろ。わからないのか」
「マナーなど我が輩は気にならないが」
「いいか、キミが気にいるかじゃない。入ってもいいと、そう言ってくれないか? しっかりと、はっきり、言葉にして欲しい」
 入って構わないと言うのに、扉の向こうからは焦れた声音が返ってくるばかりだった。
 神経質そうな言葉を聞きながら、ようやくヴィクトルは妙な患者だと思った。明確な言葉にしろと要求するところで、招かれねば住居に入れぬという悪魔の話を思い出す。
「……どこも断られたのか?」
「聖夜だからな。どこの家も清らかな声音で歌っては引き蘢ってばかり。俺の声には気づかない」
 その返答から、扉の向こうは悪魔であろうと推測をつけると、妙に目が覚めた。悪魔の存在は知っていたが、しかしこのように許可を求められるのは初めてのことで、単純に興味がわいたのだ。
「——許可してやる。入るがいい」
 笑みに歪む唇でヴィクトルがそう言い終わると同時に、靄のように実体のない黒い影が扉から滑り込んだ。
「なんだ、驚かないのか」
 影は散り散りになったかと思えば、すぐに人の姿を取り、つまらなそうな顔をした。見るからにふらつきそうな、頼りない面差しであるのに、目玉ばかりが煌々と輝いている。
 白衣に身を包み、生きながらも沈鬱さを面差しに落としたヴィクトルとは正反対と言えるような姿であった。  ああなるほどこれか吸血鬼かと、さして疑問もなく理解できた。噂には聞いていたし、興味もあったためだろう。噂からすればもっと高貴な血筋がどうのと理屈をこねるものかと思っていたが、そうでもないのがおもしろくもあった。
「悪魔であればさほど不思議でもないだろう。貧血かね」
「話が早いな。そうだ。血が欲しいんだ……キミの血でなくともいい」
「輸血でもしたいのか? 生憎ろくに経験もなければ」
 輸血はその時代、すでに存在していたが、ひどく不確かなものであった。今であれば信じ難い話だが、当時はまだ血液型という概念がなかったことや、血液が凝固する問題などに阻まれて、死亡確率の方が高い処置として認識されていたのだ。
「——他者の血もないな」
「では、キミから貰おう」
「それも困る」
「俺が生きるか死ぬかだぞ」
「ここで死ぬことは誰であっても許さない。我が輩の専門は不死……知らずに来たのかね?」
 ただの町医者のくせに大口を叩くものだとヴィクトル自身、呆れる言葉ではあった。しかし本心に違いなかった。そのために医術だけでなく、オカルトに手を染めつつもあるのだ。このような奇妙な客を喜ぶのも、ひとえにその目的のためである。
「もちろん、我が輩が死ぬのでは困る」
 ヴィクトルは断るように語気を強くした。しかし、その頭にはひらめきがあった。まさに天啓と言えるかもしれない。この場合は悪魔的な、というべきか。言葉の裏を読むこともできぬらしいクドラクは必死に食い下がろうとしたが、そもそもヴィクトルに断る気はなかった。その胸にあったのは、興味だ。
 クドラクはそんなヴィクトルの心中など見透かせず、憐れみを誘うように膝をつき、懇願してみせた。
「殺さない。少しでいい。ほんの少しだ。元来、俺たちは人間の体を流れるほんの少しのそれをかすめとる程度の存在だ、なぁ——」
 しかし口からこぼれる牙は吸血鬼らしくぎらりと光り、あまり不憫な様子に見えない。嘘の下手な悪魔だとヴィクトルが呆れるほどには、この悪魔は純粋に見えた。
「まぁまて、話を聞け——そうだな、我が輩もおまえの血液が欲しい。不死の眷属たるその血統の、血が欲しい。それは、本当に命を永らえさせるのか?」
 ヴィクトルの質問に、クドラクは憐れな様子をとるのも忘れてぽかんと口を開いた。だが、すぐにその口もとへ笑みが滲んでいく。
「——キミを選んでよかったかもな。ドクター、キミは本当に俺たちのことを研究しているんだな。有名になるわけだ」
「そういった評価に興味はない……それで?」
「先に血をくれ」
「不死の力はあるのか」
「信じられない方がわからないが」
「……どのぐらい欲しいのだ?」
「ほんの少しだ、首を差し出して、瞬きほどもかからない」
「時間のことではないぞ」
「——首を」
「断るぞ。はっきり言え」
「ドクター、」
「そこのビーカー一杯ならば考えてやる」
 どうかねと尋ねれば、その目線を追ってビーカーを見つめたクドラクはごくりと喉を鳴らした。たいした量ではない。死ぬことはない。
「すばらしいな……断る理由がどこに?」
 きらりと輝いたのは牙ではなく瞳だった。
 生気を感じる瞳に驚くのも当然の、チアノーゼの浮かぶ痩せた顔、色の抜けた髪。すべてが死人のそれでありながら、その瞬間、瞳ばかりはヴィクトルなどより清らかに輝いていた。欲のぎらついら瞳ではない。純粋な喜びがそこに見えた。まぶしい、とまるで朝日を目にしたときのようにヴィクトルは思った。
 しかし腐敗してこそいないが、クドラクが身を包んでいる、貴族風のくたびれた衣装はすこしばかり時代にも遅れている。それこそ、ヴィクトルがまだ若く、すべてを持っていた頃どころか、その父の時代の流行に思われた。どれほど生きているのだろうかと不思議な気持ちになっていると、その吸血鬼はにたりと牙を見せて笑った。
「まったく、俺たち悪魔が何故キミのような人間を面白がるのか、理由がわかる」
 彼はヴィクトルの手をとった。まるで隷属を誓う騎士か、ダンスを申し込む紳士のように。
「俺も、キミの望みを叶えてやると誓おう。吸血鬼は小さな約束に縛られる生き物だ。覚えておくがいい」
 その仕草は、なるほど貴族めいた悪魔と言われるわけだ、とヴィクトルを納得させるものだった。

 ビーカー一杯も血を抜いたのだから当たり前ではあるが、ヴィクトルは気怠い体を椅子に沈めて、ため息をついた。まるでそれが途方もない宝のように味わう吸血鬼を見つめるしか、彼にはすることがなかった。
 クドラクは、こくりこくりと喉をならし、ゆっくりとビーカーの中を潤した血を味わった。小さなビーカーを逆さにし、舌ですべて舐め尽くそうと努力する姿は相変わらず死人のそれであるのに、いじましさからはとても死んでいるとは思われないものがあった。口から伸ばされた舌が、執拗にビーカーへ残る血液を舐めとろうと働く。
 ビーカーのせいか、口の周りに血が残って、子どもの食事風景にも似ている。
「そんなにうまいのかね」
 クドラクは答えない。両手で掴んだビーカーに忠誠でも誓うようだが、一滴も残さずに味わおうとその内壁を舐る舌は、興奮に震えているようにも見えた。
 呆れたものだと止血処置を終えた自分の腕を眺めて、ヴィクトルは思った。先ほど血を抜いた傷口は、触れれば、そこだけが鼓動と外れて脈打つような錯覚がある。その鼓動はもちろん、ビーカーの中には伝わらない。生温い血を味わうクドラクはただ、その物質に満足しているらしい。
 死体の、流れぬ血ではだめなのかと疑問がよぎる。流れぬということは腐っていくということで、現実的ではないなと自らの疑問を打ち消しては再びため息を零す。さきほどから、そのように取り留めのない思考がヴィクトルの頭に浮かんでは消えていた。
 やがて満足した吸血鬼は静かにビーカーを置き、骨張った手で口元を拭ってはまた、その指を舐めながら、ヴィクトルへ向き直った。
「暗闇の気配がする血だ。キミは罪深いんだな。いいね、俺たちが惹かれてやまない人間の血の味だよ」
「それは、褒めているのか?」
「あたりまえだろ。俺がこんな風に人を誉めるのはめずらしいよ。喜べ」
「構わないが……次はそちらの番だぞ」
 椅子から立ち上がろうとするヴィクトルに、クドラクは音もなく跪いた。
「俺の血をどうしたいんだ?」
「輸血したい」
 すこし前のやり取りを否定するように言い切れば、もちろんクドラクは眉根を寄せた。
「輸血は覚えがないと言っていなかったか」
「言った。なに、すこしばかりお主の血を打つだけだ」
「……取り返しがつかないぞ」
「だが、吸血鬼は死なぬのだろう」
「死なない。白樺の杭を胸に打たれぬかぎり、首を切り落とされぬかぎりは」
「ふむ。思っていたよりは頑丈だな」
「だが、痛みは変わらない。それに、日光や水も苦手になるよ」
「まるで倒錯者だな」
 ヴィクトルは思わず呟いたが、打ち消すように付け足した。「もっとも、我が輩が言えることではないか」
「そうだとも、ドクター。だいたい、どうなるか知らないぞ。俺たちが自分の血を混ぜて仲魔を増やすのは、キミが思うよりもデリケートな儀式だ」
「デリケートな儀式だからこそ、丁寧に行おうというのだ」
「……悪魔の血は毒だ」
「だろうな」
「キミは人でなくなる」
「そうだな」
「人ではないが、俺たちとも違う——わかっているか? 折角美味い血を持っているのに、馬鹿げてる。そんな半端なものに成り下がって、何がしたい?」
「——我が輩は不死が専門だと言ったであろう」
「それは、人であることよりも大事なことなのか」
 クドラクは不思議そうに首を傾けた。どうしてそんなことも伝わらぬのか、ヴィクトルにこそ、わからなかった。
「くだらんことを言わず、お主も腕を出せ」

 単純にクドラクから血を抜くために血管を指先で探しながら、ヴィクトルはふと気がついた。
 吸血鬼というものは、生きていない。悪魔であり、そして死人である。しかしひどく緩い間隔ではあるが、脈はある。呼吸はない。鼓動ばかりがなにを運ぶのかはヴィクトルもまだ見当のつかぬことである。
 ようやく探り当てた血管へ針を差し込むのにも、少しばかり苦労はあった。聖水で拭った針先をクドラクの血肉に突き立てることで解決したが、聖水を嫌い、クドラクは当然ながら抵抗した。しかしそのままでは通ったところですぐに傷が癒え、針を差し込んだ意味がないので仕方がない。
 聖水で爛れた皮膚へ突き立てられた針とヴィクトルとを、律儀な吸血鬼は恨みがましい目で睨んだ。
「噛むほうが早いのだぞ、ドクター」
「だから、眷属になりたいわけではない」
「だが、その血がキミを生かすことになる。ほとんど同じだ」
「生かす? 殺すの間違いではないのか」
 不可視の注射器へと少しずつ吸い上げられる血を見るように目線を落とし、クドラクはすこし黙り込んだ。そうして大人しくしていると、本当に死人のように見えた。青ざめた肌に血色が戻る日はもう来ないのだ。
「……キミの言葉では、悪魔になるということは死ぬということなのか?」
「——それは違うな」
 疑問を返されながら、クドラクの腕から針を抜いた。
「ただ、それ以上は死なぬということだろうと思っている」
 聖水のせいなのか、すぐには塞がらぬようになった傷口から、数滴ばかり血液が垂れた。それを自分の舌で舐めとったクドラクはしかめっ面になった。血が溢れたことではなく、その味に顔をしかめたらしい。
「こんなものが欲しいとは、本当に変わってる」
「人のこんなものがお主らの糧であろうに」
「それとこれとはまた別だね」
「しかし、悪魔とはいえお主にも血が流れているのだな。不可解なことだ」
「キミこそ、実に興味深いね」
 わざわざ椅子をよせてヴィクトルの隣へ腰掛けていたクドラクは、黒い外套を翻すようにして、足を組み替えた。
「キミがこれからどんな風になるのか、楽しみになってきたな。キミがサマナーなら、運命だと言って口説くのに」
「物好きだな」
「俺から言わせれば、キミに協力する悪魔はたいてい、そう思っているだろうな」
 これも口説き文句かなと茶化して笑う牙を無視して、ヴィクトルは自分の腕に注射をする支度を淡々と終えていった。机に腕を置き、はやる心を落ち着けようと息を長く吐き出す。
「ほんとうに、そんな量でいいのか? そんなに少量では、血の毒が馴染むまで、きっとずいぶんかかるぞ。ああでも、そんなリスキーなことも厭わないキミ、魅力的だね。それとも自虐趣味なのか? どちらにしろ俺はひじょーに、くらくらくるが」
「やかましい。我が輩も自分を実験台にするのははじめてだ。黙っていろ」
「ハイリスク・ハイリターン、まるで外貨投資だな」
「失敗はしない。黙れと言っている」
「なりたての同族が怖くて、口が滑ってばかりでね」
「怖い?」
「大抵は理性がトぶ」
 ヴィクトルはクドラクの答えを待たずに、自分の腕へと針を差し込んでいた。
 血管に差し込んだ針の中を、摂ったばかりの血が走る。そっと押したピストンに促されて、異物である悪魔の血が流れ込む。
 文字通り、それは体を駆け巡った。
 血が脈打つ傷口に、身体がめちゃくちゃに暴れそうになる。あわててクドラクがヴィクトルの腕を抑えにとびかかり、舌打ちをした。
「言い忘れていたが、首を噛むのはいろいろ合理的な理由があるんだよ。たとえばこうして暴れる体を抱きとめておける」
 ヴィクトルには返事をすることもできなかった。
 血が熱い。喉から咆哮がこぼれるのを堪えることもできないほどだ。逃れようと頭をふれば、ぐるりと目玉が回り、世界がくずれていく。
 全身の血管を、鋭い、しかし小さな針山が無理矢理に駆け巡っていくようだった。いばらが肌を抱き、皮膚を引き裂いてははがしていくようにも思われた。全身が悲鳴をあげている。
 たったすこしの悪魔の血が、人間であるヴィクトルの身体を襲っているのだ。その身体に巡る血を毒しながら。
 身体がどのように動いているのか、座っているのか、床をころげているのかさえヴィクトルには自信がなかった。震える手で、刺さったままの注射器を抜くと、勢い余って床へ投げ捨てることになったが、拾ってなどいられない。
 酩酊感が意識を切り離そうとする。抵抗しようとしたができず、ヴィクトルはそのまま倒れこんだ。
 木張りの床へ、強かに額を打つ。
「おいおい、ドクター!」
 クドラクがぎょっとした声をあげたが、起き上がることはできなかった。その痛みを最後に、ヴィクトルの意識は四散した。

 目覚めれば、寝台に横たえられていた。驚いて飛び起きようにも天地がわからず、起き上がりかけた身体は、後ろへ倒れた。その感覚は何かに似ていた。うまく力が入らなず、腹が唸るような感覚だ。
「おはよう、ドクター」
 クドラクであった。
 窓は閉め切られ、昼か夜かもわからない。
「もう夜だ」
「なに」
「ああ、助手が来たが帰しておいた。キミの具合が悪いと伝えておいたが、まぁ明日まで来ないだろう」
 どうにか半身を起こしたヴィクトルの枕元に椅子を引き寄せ、クドラクは腰掛けた。その仕草に、今更ながら、長い足だなとどうでもよいことを思った。
 そのぼんやりとした視線を見て取った吸血鬼は無理矢理にその視界へ顔を納めるよう、ヴィクトルの顔を覗き込んだ。
「ようこそ、俺たちの世界へ」
「なぜ、まだここへ?」
「なぜって——誕生を祝うのは当然のことだろ。キミが半端な存在であることは残念だが、半分は仲魔だ」
 クドラクはそんなふうに言って、机の上からビーカーをとった。そこには赤く、すこし黒くなりはじめた液体が満ちていた。ヴィクトルはそれをみて、ようやく鼻がそれを認識していることに気づいた——空腹だ。
「それは……血か?」
 答えるつもりはないらしく、「アフターサービスだ」と彼は問答無用でその血をヴィクトルの口に流し込んだ。神妙な声音ではあったが、くつくつと喉が笑っており、楽しんでいるのは明らかだった。

 舌に広がる血の味は劇的には変っていなかったが、しかし、むせ返ることもなかった。それどころか、以前とは違い、味を感じた。まるで魚や肉の味を感じるように。
「ふむ」
 ヴィクトルは口元を舐めながら、その些細な、しかし決定的な違いに目を見張った——他にはとても半吸血鬼になった自覚はなかったが。
「おかしなことでもあったのか」
「血がうまい」
「なんだ、つまらん。ふつうのことだ。ああでも、きっと証拠だな。キミが悪魔に近づいた、その証」
 なるほどなとヴィクトルは納得した。
「だが、大して変わらんのだな」
 クドラクは言った。
「ああ。残念だな。キミは美味い血であったのにな」
「それほど変わりがあるか?」
「半分程度でも、十分にね。だがキミが望んだことだ」
「ああ。感謝する、クドラク」
 こちらこそ生き返ったから、と吸血鬼はそれ以上の言葉を避けるように立ち上がった。細身の身体は、そうするとすぐ、暗闇に溶けいってしまいそうだった。
「また、血が切れそうなときに寄るよ」
「混じった血でいいのか?」
「キミの血が、馴染むのにまだかかるだろう」
 俺はいつもどおり血を盗むよと彼は何でもないことのように言った。ヴィクトルにはその優しさが少しも理解できなかったが、それこそが自分に欠けているものであろうかと、そのようなことを考えた。
「悪魔のほうが、よほど親切なものだな」
 思わずそのように言うと、クドラクはニヤと薄笑いを深くした。
「戯れにつくって殺すのなんて、人間だけだ」
 そうして彼は肩をすくめながらヴィクトルに背を向けると、昨晩、滑り込むようにして入ってきた扉を開けた。凍えた空気が戸口から入り込もうとするからなのか、それともその言葉にか、ヴィクトルは今度こそ、自分の心臓が止まってしまうのではないかと錯覚した。——いつかの北極で、そうなったように。
「——なんてな」
 冗談、と囁くように言って、人影は暗闇と一体化して消えた。それから静かに閉じる扉には、意思があるように見えた。
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