狐裘羔袖
 ころりと室内に飛び込んで来た小石に気づいて窓の下を見ると、金の毛皮を月明かりにさらす一匹の狐の姿があった。艶やかな毛並みからして人目をひくが、さらにその尾の数は四本ときている。ただの獣でないことは誰の目にも明らかだ。この場に人目がないにしてもそれは無防備なことであった。しかし思いがけないその姿に佐助が忠告することも忘れ、畳みかけの着物を取り落とすほど驚いて目を丸くしている間に、狐の姿は霞むように虚ろとなって一人の女へと転じた。くにゃりと柔らかな肢体を折った女がしなやかな背を伸ばして、月を背に立ち上がる。その頭が上げられると、金糸のように輝く髪の二房が豊かな胸元に流れ、まるでその肉体の持つ曲線を強調するようだった。
 美しい面差しをもったその女はつまらなそうに小屋を一瞥し、二階から顏を出した佐助を見るとわずかな音だけをたててその場から跳躍し、窓枠へと飛び移った。
「おい貴様、なにを惚けている」
そして勝手に窓枠から部屋に入ると、女はまだ目を丸くしている佐助を睨んだ。
 佐助は瞬きし、それからようやく青い顏になって「おまえね!」とどうにか声を殺しながらも語気を荒げた。
「なんだ。文句でもあるのか」
「大ありだよ! なにこんなところで本性だしてくれてんの――!?」
「別に平気だ。周囲に人はいないことぐらい確認した」
「気配読むだけじゃだめなんだって! だいたいここ、俺様以外がいたらどうすんのさ」
 佐助がいる部屋はもちろん佐助個人のものなどではなく、真田忍びが肩を寄せ合う狭い小屋の一室である。今こそ出払っているが、この部屋には六人が寝泊まりをすることになっている。佐助も女も忍びの里を装った物の怪の里育ちではあるが、なにも忍びがすべて物の怪というわけではない。もしも誰かがいたときのことを考えて、佐助は青ざめているのである。これがただの女であっても問題ではあるが、彼女はどこかの忍びになっているはずだ。ある意味では屋敷よりも安全と言えるこの忍びの詰め所へ他所の忍びが潜り込んだとなれば一大事である。
「だから――」 それも問題はない、と言いかけ「かすがは考えが浅い」と佐助が付け加えるのをきいてかすがは吼えた。
「やかましい!! 私は貴様とお喋りをしにきたわけじゃないんだ! さっさと用件を言わせろ!」
「ちょ、ちょっと、落ち着いてよおまえ興奮すると声大きいんだから…!」
「なんだと!」
「かすがぁ〜」
 噛み付くように返すかすがの口を黙らせようと佐助が悲鳴をあげて口をふさぎ、なおかつ縋り付こうとすると、かすがはぎょっとしてそれを避けた。避けるついでとばかりに間髪を入れず「寄るな!」と足が伸ばされるのをよけ、佐助は小さく呻いて渋面で胡座をかいた。そして降参降参!とふざけた調子で手を振る。「あああもうわかった、わかったから。はやく用件言ってくれちゃってよね」
 かすがは険のある瞳で佐助をねめつけたが、息を吐いて声を落とした。
「……お前、九尾になったのだろう。里のばばぁが占託で言っていたぞ」
「うわちゃ。何占ってくれてんのかね婆さまどもは」
「嫌ならさっさと帰ってくればよかったんだ。だいたい、何故帰ってこないんだ? 死んだわけでもない、人間にバレた様子もない、便りもない。人の中に生きるにしても、もうそれなりの年月になるだろう?」
 じ、と見つめる瞳の真摯さに、佐助はさてどうしたものかと目をそらした。死んだわけではない。人に正体が見抜かれてもいない、便りも確かに出したことがないまま七年を過ごしたのは事実だ。しかも帰らなければと思っているくせに、踏み出せずにずるずるとここにいる。不審に思われるのも仕方のないことだろう。
「佐助」
「ま、折角来てくれたおまえに悪いしね、明日にでも行くよ」
 訝しむような呼びかけに、佐助は溜息混じりに軽く答えた。
「なんだ。渋っていたわりに呆気ないな。人の世から離れるのは手間がかかると聞いたが、そんなものか」
「昌幸様に許可を戴いて一度里に帰る形にしときゃ、多少長引いても平気でしょうよ」
 首をかしげるかすがに首を傾けて返すと、かすがは目をみはって、声を落としていたことも忘れて怒鳴った。
「馬鹿!」
「かすがっ」慌てて佐助が掌でその口を覆い、周囲を見回す。反射的に向けられた佐助の掌にかすがは言葉をつまらせたが、振りほどいて苦々しく続けた。
「ただの里帰りで済ます気か――私は、里に下がれと言っている」
「御免だね」
 佐助は言葉が飛び出すまま、そう答えた。佐助自身驚くほど、それは偽りのない本音だった。
 この七年間の人の世は佐助のそれまでよりも色濃く佐助という個に影を与える日々であった。離れ難いという理由はすなわち、この人の世界が一匹の狐を変質させたということに他ならなかった。情を抱いたというには生温いほどに強い感情が佐助にはあった。よもや気づかぬふりも難しいだろう。才蔵に「捕われたか」と問われたときのことを思い出しては考えぬふりをしていた答えが今さら見えはじめる。
「ふざけるな! そもそも里が赦すものか。悔しいが……お前ほどの逸材を逃すほど豊かな里ではないのだから」
「わかってるって。でも、離れ難いものは仕方がないでしょ」
「……おまえ、それは……」
まさか捕われたのか、と目をみはるかすがに佐助は微笑んでみせた。「馬鹿ってもっかい言ってもいいよ、かすが」
 情を抱いた。抱くまいと思っていた強い感情を、佐助は得てしまった。すなわち、捕われているということに他ならない。たかだか十を越えた人の子の魂に佐助の影はもう縫い止められてしまった。尾の九本ある狐風情では切ることのできない糸で、解けることのないように、きつく。
「ッこの間抜け! 九尾にまでなっておいて!!」
「そう。だから俺様みたいなできそこない九尾は里に戻ったところで利益あげないよ、ってね」
 へら、と笑った佐助にかすがは殺気めいたものさえ向けたが、ふいに近づく気配に弾かれたようにそれを潜めた。耳を澄ませるように気配をさぐるかすがに、佐助は弁丸に言い聞かせるような調子で言った。「うん、おとなしく帰っちゃったほうがいいよ。人がくる」
「……ッ…もう知らん!」 かすがは吐き捨てて、やはり窓枠から飛び出した。
 かすがを見送るように獣の影一つさえ鮮明に映し出す月夜を見上げて、佐助はぽつりと呟いた。壁一枚を隔てれば言葉を漏らしたことさえわからぬかもしれぬほどの声だ。しかし人ではないものの聴覚にはしっかりと拾えたことだろう。
「俺は里を抜けるよ、かすが」
 その呟きに応するように、佐助にはほんの一拍足を止める足音が聞こえた。

*「狐疑逡巡」、「狐その尾を濡らす」、「赤犬が狐追う」のさらに続き。そして続く。ほのぼのから路線がかわりつつ……。

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