戎馬殺して狐狸求む
 朝餉も手習いも終えたというのに今日ばかりは姿を見せぬ忍びに痺れを切らして、幸村と名を改めた弁丸は「佐助!」と幾度も名を呼びながら屋敷のなかを歩き回っていた。忍びが多い真田屋敷とはいえ家の者に聞いたところで行方を知るものがあるわけもなく、かといって忍び小屋を訊ねることも佐助が禁じているために決断できず、どうにか捕まえた忍びの一人も佐助の行方を知らぬと言う。仕方がないので裏山へ行こうかと草履を履いたところであった。
 「幸村」とまだ誰もが呼び慣れず、また本人自身も呼ばれ慣れぬ名が向けられる。
「父上」振り返れば父が少し困ったような顔で手招きをしていた。「何用にございましょう?」
「ああ、おまえの忍びの話だ」
「佐助の?」
おいで、と昌幸に呼ばれるまま寄れば、見慣れぬ長身がその側にある。枯れ木色の忍び装束に身を包んでいることから忍びであろうことはわかるのだが、見覚えのない青年であった。にこりと微笑む穏やかな青年は、艶やかな黒羽色の髪を後ろに一房まとめて垂らしている。はてこれは一体誰ぞと首を傾けかける息子に、昌幸は柔らかな物言いで言った。
「これは霧隠才蔵と申す。佐助は里に呼ばれた故、佐助の留守の間おまえの側に控えることになった」
もしも幸村が女子であれば、昌幸の言葉に一礼をした寡黙な美丈夫にその目も奪われたかも知れぬ。しかし生憎幸村は男児であったし、美醜にさほどの関心もなく、またなにより佐助の名が出てきたことに驚き、言われた内容を理解してさらに驚くばかりで、ひどく整った容姿をした才蔵には目もくれず、ただただ父に対して目を剥いた。
「お――、某は、佐助からなにも聞いておりませぬ!」
「うむ。佐助もそう申しておったが――火急のことでな。ただ、代わりが必要ならばとこの者を佐助当人が推してきたのだ。あまり冷たくしてやるな」
「この方が嫌かどうかという問題ではございませぬ!」
「吼えるな、吼えるな」
「ですが父上!」
 しかしそうして誘導されるまま座敷にあがった幸村は、その後与えられた菓子と昌幸の根気強い説得によって懐柔されることとなったのであった。
「幸村様はほんとうに“あれ”を好いていらっしゃるようだ」
 ふいに、草笛を吹いてきかせていた才蔵が手を止め、幸村を見つめた。佐助の髪色の話をしていたところでふいに笛の音が途切れ、言葉を向けられた幸村がはてなと瞬きすれば、佐助のように少し困った様子で微笑む。その微笑みに、まったくどのような顔をしてもこの忍びの顔は見蕩れるに値するものに代わりないのか、と幸村は幾度目かわからぬが感心した。
 才蔵が屋敷にきてから、もう十日ほどになる。最初こそ気づかなかったが、幸村からみても才蔵は他のものより飛び抜けて豊麗な美貌を持っていると思えた。出入りする女中などの話をきいても猿飛殿の代わりに入った忍び殿の顔は見るだけで失神するという大袈裟な噂話が飛び交っているようなので、やはり相当なものなのだろう。不思議なことにそのような美貌の友人をもっているという話を佐助から聞いたことがないので幸村は本当に友人であろうかと疑ってさえいたのだが、佐助の色々な話をきかせてくれ、また嫌な顔ひとつせずに相手をしてくれる才蔵への警戒が解けるのはあっという間のことであった。
「“あれ”とは何のことでござるか」
「あれはあれにございます」
 すぐにわかったことだが、才蔵は時折このような言い回しで佐助のことを言う癖がある。とくに最初はいつもそうである。佐助と名を口にするのを好しとしないのか、「あれ」であったり「彼奴」であったり「貴方様の忍び」である。
「……佐助のことでござるか?」
「ええ。あれとは貴方様の忍びのことに決まっておりましょう、幸村様。しかし、あまりあれに執着めされるな。あれは執着を不得意としております」
「執着?」
「はい。執着にございます。あれは貴方様の忍びにございますが、幸村様は幸村様、佐助は佐助で別個のものにございますよ」
「それはそうであろう。当然のことではないか」
 幸村が即座に返せば才蔵は意外そうな顔をしてから「ふむ」と呟いた。顎を撫でる指先が思案している。
「才蔵?」
「いえ、なんでもございません。それより幸村様、そろそろおやつ時にございます。茶と菓子を持って参りましょう」
「うむ」
 問いかけに対して誤摩化すように才蔵は立ち上がり、しかし廊下を曲がろうとして足を止めた。
「ときに幸村様――」
 視界の端で振り返る才蔵の後ろ髪がゆら、と陽炎のように揺れたように見えて幸村は思わず顔を向けた。しかし振り返った才蔵のどこも歪んでいたり虚ろに見えるところはない。さては目の錯覚であろうか。
「なんでござろう」
 言葉の続きを催促すれば、才蔵はまるで献立を聞く女中のように問うた。
「佐助が戻りません場合はいかがいたしましょう」
思いもかけない問いかけに幸村はぽかんと間抜けに口を開いた。考えもせずに答えが飛び出る。
「それはござらぬ」
「……なにも今、というわけではございません。我らは忍び。もしもという場合もございます」
すると珍しくも才蔵はその回答に食い下がった。おや、と幸村は思った。才蔵は駄目だと思った事柄に対しての執着を持たぬらしい、とこの十日のうちでもわかっているからである。たしかに深く考えもせずに言い切ったのだったが、才蔵らしからぬことである。しかし幸村も才蔵の言いたいことがわからぬほどの童ではない。なるほどその結果は忍びが定めと言えることであるかもしれぬ。たしかに、もしもという場合がないといえる平穏な世の中ではなく、また、そのような世であれば佐助は忍びではなかっただろう。
「……それは、」 諦める覚悟をしろということだろうか。そう思えた。そしてじ、と見つめる才蔵の瞳が気づけばひどく冷えたものであることに気づいて、急に背筋が汗ばむのを感じた。何と答えるべきかわからなかった。実は佐助が戻らぬということを考えたことが幸村にはなかった。佐助が戻らぬということ。それはうまく想像することさえできなかった。今がもっと長く続くということだろうか、と考えをめぐらせるものの、しかし今は佐助が必ず戻るとわかっているので違うような気がしてならない。
「もしも、」
 幸村は結局、己が心の望むままに答えた。
「そうなれば――こちらから迎えに行こう」
けれど才蔵は躊躇なく切り返した。冷えた瞳はまるで感情のないものに見える。
「しかし貴方の立場がそれを赦しましょうか」
「立場など知らぬ!」
なにもかもを削ぎ落としたように色のない才蔵の言葉に、とうとう幸村はかっとなって声を荒げた。
「才蔵、お主何が言いたい。佐助は何があろうと戻ってくるぞ。必ず戻る。あれはこの幸村が忍び――佐助が……この俺の手を離したりするものか!」
 すると才蔵はまるで今問いかけをしていた者とは別人のように満足げに頬を緩めた。
「――それはもちろんにございますよ、幸村様」
 にこりと笑む顔は初めて顔を合わせたときと同じように柔らかく、整ったものである。突然の変化に激昂も忘れて幸村は声を失ったが、才蔵はすこしも気にならぬようであった。
「意地の悪いことを言って申し訳ございません」と一礼をすると才蔵は今度こそ廊下を曲がって行った。その後才蔵は変わらぬ調子で草餅と茶をもってきたのだが、おかげで幸村はなにやらもやもやとしたものを抱えることとなった。
 そうして幸村はその後もしばらくは問いかける才蔵の冷ややかな声が忘れられず、またすっかり影も姿も潜めてしまった佐助のことがひどく懐かしくてたまらずになかなか寝付けぬ日々を過ごすことになったのである。

*進んだようでちいとも進んでおりません…が「狐疑逡巡」、「狐その尾を濡らす」、「赤犬が狐追う」、「狐裘羔袖」のさらに続きです。

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