狐死して丘に首す
 代わりに屋敷へ置いてきた才蔵はどうしているだろう、と佐助は思った。ほかに考えることがないからである。面の皮の厚いあの天狗のことであるから下手を打つことなどはしないであろうとは思いながらも、しかし考えてしまうのはひとえに主人のために他ならない。
 佐助の主人。真田幸村。幸村のことを考えると、なにやら胸の内がざわめいた。ふと、自分の代わりを務めてほしい旨を伝えたときの才蔵が「お前は忍びの自覚がないのか」と呆れた顔をしたのが蘇る。一日のうちどれだけの時間を幸村と過ごすか、幸村の好きな団子屋の地図を添え、お八つの団子は何時に何本と決めているということ、どのようなことを好むかということ、また三食の食事においても供をするなど。たしかに、呆れる部分がないとは言えぬ。佐助にもおかしいと思わぬことはないのだが、だがあれはなにもそこまで言わずともよかったのではないだろうか。その合間に忍びの仕事をしていないわけでもなし……。
 考えてみると、今となってはむくむくと、ずいぶんと失礼なことを言われたのだという自覚が佐助の胸の中へと芽生えてきた。
「だいたい、ンなこと言ったって――ねェ」
 佐助ははぁと溜息をついて頭を傾げた。
 それにしても、手を括られ、足を吊られ、逆さにされているので頭ひとつ傾げるのも重力に逆らわずにはいられず、面倒なものであった。少し頭を揺らすだけでもぐらぐらといちいち体全体が振れるので、いいかげんいらだちも募ってきていた。佐助は大概のことは水に流すように腹に溜め込まずにいられるが、ふと意識が向けばやはり人並みに不快感は感じるものである。
 里に戻ってから幾日たったかよくわからないが、佐助は里の外れにある粗末な小屋の梁に逆さ吊りにされていた。少なくとも日の入りと日の出を10回ずつは見たように思う。気絶をしていた時間もあるので、さらに数日足したものであろうかと思うが、明確なところは佐助にもわからない。それどころか力を封じる札を小屋の四方に張られ、周囲に陣まで描かれているので、逃れることもけものの姿にすっかり戻ってしまうことも難しいのである。かといって、なにか拷問にかかるというわけでもない。幾日もこのように吊り下げられ、時折吹き込む雨水や冷たい風にただ人の肉体を震わせるばかりである。
「だいたい何なんだこの扱い。餓鬼の折檻かっつーの」
「なにを言うとる。十分に餓鬼じゃろうが」
 佐助の吐き捨てた言葉は誰の耳にも入らぬはずであったが、それどころか返答があった。
 ふいに現れた気配に佐助は思わず驚き、それからその声に顔をしかめた。背後にいるであろう声の主は考えるまでもなく想像できた。認めたくない心中を押さえつけながら、首だけで振り返る。
「……出やがったか爺め」
 見れば、やはり佐助が思ったとおりの相手がそこにはいた。白い髪を短く刈り込んだ男は、黒目がちの目を細めて、呆れたように腕を組んでいる。背丈は下駄を履いていても佐助よりわずかに低い程度しかなく、顔も佐助と比べれば十ばかり年上かと思われる見た目であるが、見た目はあてになるものではなかった。これは佐助にとって一番近しく、そしてこの里で一番の大敵である。
「ふむ。七年もたったというのに口の悪いのは直らなんだか」
 自分の顎を撫でながらつまらなそうに言う男は呆れたような視線を佐助に向けた。しばらくぶりではあったが、変わらぬのはお互い様のようで、佐助は眉を寄せた。
「爺の若作りも代わり映えがしねぇのな」
「言うたな」
「言うさ。七年ぶりで第一声が餓鬼かよ。ひどい師匠だ」
にや、と浮かんだ笑みを警戒するように目を細めて、佐助は吐き捨てた。
 この男を白雲斎という。戸沢白雲斎。里の中でも古株で、どの里の忍びからも一目を置かれ、名を知らしめている忍びだ。佐助の忍びとしての技も矜持も、ほとんど作り上げたのがその腕であった。佐助の、言うなれば師といえる男である。
「人のことを言えるか馬鹿者め」
「馬でも鹿でもねぇよ」
 佐助が茶化すように鼻を鳴らして答えると、白雲斎は溜息を殺すように顔を顰めた。「口の減らん餓鬼め」と口の中で呟き、言葉を切る。
 そして佐助の全身と細目で改めると、声を落として問うた。
「――尾は」
「揃った」
 佐助は素直に即答し、ふわりと九本の尾を顕現させた。重力に従って力なく垂れた金色のそれは人の姿には似つかわしくないもので、いささか気味の悪い様子である。だが白雲齋は「うむ」と唸ってそれを見ると、興味を無くしたように背を向けて、小屋の戸を閉めた。立て付けの悪い扉が、黙り込んだ白雲齋の代わりにがたごと喚いた。
 佐助は白雲齋の言葉を待ち、ぶらりと垂れ下がる自分の尾をふらふら揺らした。
 しかし白雲齋はしばらく佐助の存在など忘れたように囲炉裏の側に腰を降ろして、炭を見つめるばかりであった。
「――馬鹿め」
だがしばらくの沈黙の後に白雲齋は呟きまじりにゆるゆると顔をあげ、梁から吊り下げられている弟子に視線を向けた。
「人の世が恋しいか、佐助」
「恋しかねぇや」
そして佐助が即答すれば「ほう」と愉しげな顔で目を光らせた。
「里には戻らぬというのに?」
「わかってんだろ、どうせ」
 白々しい。そう吐き捨てて、佐助は舌打ちをした。「そんなんじゃない。ただ、俺はもう、あのお人との縁を切れないのさ」
 白雲齋はじ、と舌打ちをした弟子を見つめて、腕を組み直した。それから、何も言わずに佐助の腕を縛る縄を解きながら、舌打ちをした。
「おれが手塩にかけて育ててやったというのに、人にくれてやるには惜しくてならんな」
 手を開放されるのに驚きながらも、まるで拗ねたようなことを言う白雲齋を、佐助は笑った。
「畜生の身の上で贅沢言っちゃなんねぇさ」
「畜生か」
「畜生だろ。俺たちなんざ、所詮はけものじゃねぇか。アヤカシだのと言ったところで、それは変わらないだろ」
「それでも人の世に紛れたいのか。九尾の身の上で、愚かなことを言う」
「七年も隠れてたんだぜ? 心配しすぎじゃねえの」
「甘い。力をつけて天狗にでもなったか」
「ンなこと言うと天狗が怒るよ」
「狗が吼えたところで痒くもあるか」
白雲齋がそうして鼻を鳴らすのがなんともなしに懐かしく思えて、佐助は思わず笑った。「あんたらしいことを言う」それは何の意図もない、ただ零れただけの笑みであった。しかしそれを見て、白雲齋は眉を寄せた。
「おまえはいくら言うても甘いままだ」
「爺どもが辛すぎんのさ」
「餓鬼め」
「餓鬼で結構!」
「そうか。哀れなものよ」
 そして、呆れたような言葉と同時に佐助は喉を掴まれた。
 予備動作もなく襲ってきた衝撃に息をつまらせると、すぐさま喉を掴む手に力が込められた。息ができず、歯を出して呻きながら佐助は身をよじった。しかし白雲齋はもう片方の手で佐助の首を支えて、呼吸を完全に断った。
「逃げたくば逃げよ、佐助」
 白雲齋の掌の下で、佐助は自分の魂が暴れだすのを感じた――熱を帯びたそれは激しく暴れて、白雲齋の手から逃れようとしているようであった。しかし魂が熱をあげればあげるほど一部がこそぎ落とされるようで、ひどく目が回る。押し付けられた白雲齋の掌が熱いのか、己の中身が熱いのか佐助にはもはやわからなかった。
 自分の腕が、足が、どのようになっているのかわからない。わかるのはただ、掴まれた喉を締め付ける力が弱まることのないということだけであった。
「ただし二度と人に化けることは赦さぬ。貴様など毛皮にでもなってしまえ」
 喉を掴む手を懸命に引き剥がそうと試みたがそれも敵わず、哀れにか細い鳴き声ばかりが佐助の喉をつく。
 このままでは完全に喉が潰れる――そのように思った時であった。
「……子のように思うておった」
囁き声と同時に、白雲齋の目が糸のように細められるのが、微かに見えた――それを、“まるで悲しむようではないか”と佐助は思った。しかしそのように思いながらも佐助はもはや呼吸もできず、ただ意識を手放すだけであった。

狐疑逡巡」、「狐その尾を濡らす」、「赤犬が狐追う」、「狐裘羔袖」、「戎馬殺して狐狸求む」の続き。まだもうちょっと続く。

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