狐が落ちる
 気付くと、川の中であった。身じろぐと濡れた肌が夜風に吹かれてひどく冷える。ああ寒い、と知らぬうちに慣れた温度の水の中へと身体を埋めながら、佐助は息を吐いた。そうして微睡みながらも見上げる天の高さに、ようやく違和感を覚えた。
 水音を散らしながら身体を起こす、と重心を失って再び水の中に落ちる。我が事ながら理由がわからず、何事かと思い、手をつきながら身体を起こそうとして、そうしてようやく佐助は我が身に起きたことを自覚した。傷痕をいくつも残す腕は見えず、腕から手首、手の甲を確かめようと目を樵らしたが、やはり見覚えのある腕はそこになかったのである。否、見覚えならばあった。今となってはひどく懐かしいその足――幸村が器用だと無邪気に褒めた腕はそこになく、佐助は代わりに生来の持ち物であった、獣の前足へと変わっていることに気がついた。
 せせらぎが、頭の中の血を冷やすようであると佐助は思った。跳ねるように飛び上がり、自分の身体を確かめれば、すっかり身体は獣のそれである。しかも濡れ細った尾を見れば、ただの一本きりしか見えぬ。どうにか四つ足で、川の中から顔を覗かせる岩のひとつへ身を躍らせる事には成功したが、しかし自覚をするほどに、己の身体のはずが、まるで違う容れ物に入れられたかのような感覚が追ってくる。目が回りそうになるのを堪えて記憶を辿り、ようよう思い出せば戸沢の言葉が脳裏に蘇る。そして突如己の息を断った戸沢が何をしたのであろうかということに思い至った。
 「毛皮、ね」と佐助は獣にしかわからぬ言葉で呟いて、するりと人体をとるよりも柔らかな骨の身体を伸ばして、ようやく川から飛び出し、しんと冷えた夜の空気に溶けるように息を殺した。
 獣の身として生まれ落ちようが、あやかしとして生まれた以上その身は畜生と一線を画すものである。獣の姿をするので人はあやかしが獣の身から転じたものであると噂するが、それは異なる。あやかしとして生まれることは宿命である。そうして生まれたあやかしというものはどこにも溶け込めぬ異質な生き物である。
 何故そのように生まれたのかなど誰も知らぬ。ただ、あやかしとして生まれることは選べぬ。獣の腹から生まれることもあれば、人の腹を借りるようにして生まれることもある。ただ、どのように生まれ落ちたところであやかしはあやかしである。どのように生まれようと、育とうと、あやかしは人にはなれぬ。化正の物にもなれぬ。あやかしは術もなく仲間を引き寄せ、その身を寄せあうように生きるのが定めである。人にはなれず、しかし魑魅魍魎の仲間にもなれぬ半端者――しかし畜生へと落ちる術ならば、別である。
 あの爺、と山を駆けながら佐助は腹の内を燃やさずにはいられなかった。
 もしかするとこの術にはこれから罰を受ける佐助を逃がすためという側面があるやも知れぬと思い当たらぬ佐助でもないが、しかし戸沢の手で畜生へ落とされたのだと思うと、腸が煮えた。拷問などいくらでも耐えてやろうと思っていた佐助を助けるということ自体が戸沢らしからぬ、佐助の尊厳さえ踏みにじった行為であるのに、あれはその上その行為に対する報復を封じるように、佐助から全てを奪ったのである。殺してくれぬのはいっそ呪いではあるまいか、と思わざるをえない。
 あの爺の喉笛を噛みちぎり、温かな血で己の喉を潤せれば、と仄暗く灯る感情を噛みながら、佐助は駆けた。
 四つ足で駆けるのはいつぶりかわからぬほどであったが、苦ではなかった。走れば走るほど、身体が魂と馴染むように思った。前足で地を蹴れば、駆ける速度が増すのを感じる。身体に満ちるその感覚に、己の身の上をいよいよ自覚させられる。
そうして佐助は生まれ落ちたその時から知っているように身体を動かし、目まぐるしく背後へ飛んで行く景色を確かめることさえせずにただ、一心に駆けた。
 ようやく山を越え、谷を超え、真田領へと辿り着けば、すでに朝陽が夜を溶かし始めていた。
 獣の身でも切れる息を吐き出せば、ひやりと冷え気味の空気が微かに白く濁る。ああ主がそろそろそれを楽しむころであるのだ、と季節を思うと心の臓がどくりと音をたてさえした。
 しかし、久方ぶりに視界へ収める真田の領地は獣の身には広大すぎ、佐助はふいに、途方もない気持ちに飲まれるのを感じた。
 一体この祖末な畜生の身で、何ができようか。弁丸の、幸村の側で、たかが一匹の獣が何になろうか。盾や糧になることはできるかも知れぬが、せいぜいその程度のものである。武器を持つこともできぬ、敵を屠ることもおそらくはろくにできぬ、かといって忍び働きを辞そうと幸村に言葉をかけることさえ出来ぬ。
 今さらながらそのように思い知り、佐助は物音も立てずに草むらへと逃げた。
 だが、それはそういった己の役目を果たせぬ苦悩からではなく、なによりもこの獣の身を見て、幸村が己を認識することはついぞなかろうということに気がついて、その事に胸が切ないほどに痛んだからであった。

*「狐疑逡巡」、「狐その尾を濡らす」、「赤犬が狐追う」、「狐裘羔袖」、「戎馬殺して狐狸求む」、「狐死して丘に首す」の続き。

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